・・・今の私は自分ははっきり父親の子だと信じております……。 よくはおぼえていないが、最初に里子に遣られた先は、南河内の狭山、何でも周囲一里もあるという大きな池の傍の百姓だったそうです。里子を預かるくらいゆえ、もとより水呑みの、牛一頭持てぬ細・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・「あっはっは。いや、僕はさっきその崖の上から僕の部屋の窓が見えると言ったでしょう。僕の窓は崖の近くにあって、僕の部屋からはもう崖ばかりしか見えないんです。僕はよくそこから崖路を通る人を注意しているんですが、元来めったに人の通らない路で、・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・と言うと、義兄は笑いながら「はっきり言うとかんのがいかんのやさ」と姉に背負わせた。姉も笑いながら衣服を出しかけた。彼が城へ行っている間に姉も信子もこってり化粧をしていた。 姉が義兄に「あんた、扇子は?」「衣嚢にあるけど……」・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・常に原始的な切ったり、はったり、殺し合いをやったりする、ロマンティックなことばかりを書いている。どんなことでも、かまわずにさっさと書いて行く、冷たい態度が僕はすきだった。燐光を放っている。短篇を書くならメリメのような短篇を書きたい、よく、そ・・・ 黒島伝治 「愛読した本と作家から」
・・・そういう性質からして、工場へ一歩足を踏みこむと、棒切れ一ツにでも眼を見はっていた。細かく眼が働く特別な才能でも持っているらしい。 彼は与助には気づかぬ振りをして、すぐ屋敷へ帰って、杜氏を呼んだ。 杜氏は、恭々しく頭を下げて、伏目勝ち・・・ 黒島伝治 「砂糖泥棒」
・・・そうすると、湖水の女はみんなが泣きかなしんでいるまんまえで、うれしそうにはっはと笑い出しました。みんなは、あっけにとられて女の顔を見ました。ギンもびっくりして、あわてて肩に手をかけて、「おい、何です。しずかにおしなさい。」と言いました。・・・ 鈴木三重吉 「湖水の女」
・・・王子は、はっはと笑って、「もういいから出しておやりよ。」と言いました。「そうですね。兵たいや馬はこなれがわるいでしょうね。あとで腹が下るとやっかいですから出してしまいましょう。」 ぶくぶくはこう言って、わざわざ町のまん中の大きな・・・ 鈴木三重吉 「ぶくぶく長々火の目小僧」
・・・嘉七も、はっ、となった。急には微笑も、つくれなかった。薬品は、冷く手渡された。おれたちのうしろ姿を、背伸びして見ている。それを知っていながら、嘉七は、わざとかず枝にぴったり寄り添うて人ごみの中を歩いた。自身こんなに平気で歩いていても、やはり・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・夫の顎の下に、むらさき色の蛾が一匹へばりついていて、いいえ、蛾ではありません、結婚したばかりの頃、私にも、その、覚えがあったので、蛾の形のあざをちらと見て、はっとして、と同時に夫も、私に気づかれたのを知ったらしく、どぎまぎして、肩にかけてい・・・ 太宰治 「おさん」
・・・二つのものの行き方のちがいがかなりはっきり対照される。前者は何かしら考えさせよう考えさせようとする思わせぶりが至るところに鼻につくような気もするが、後者は反対に何事をも考えさせないように考えさせないようにとしているところがある。これはもちろ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
出典:青空文庫