・・・ しかし同僚を瞞着するよりも常子の疑惑を避けることは遥かに困難に富んでいたらしい。半三郎は彼の日記の中に絶えずこの困難を痛嘆している。「七月×日 俺の大敵は常子である。俺は文化生活の必要を楯に、たった一つの日本間をもとうとう西洋間に・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・しかし海だけは見渡す限り、はるかに弧を描いた浪打ち際に一すじの水沫を残したまま、一面に黒ぐろと暮れかかっていた。「じや失敬。」「さようなら。」 HやNさんに別れた後、僕等は格別急ぎもせず、冷びえした渚を引き返した。渚には打ち寄せ・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・ その言葉が終らない内に、おすみも遥かにおぎんの方へ、一生懸命な声をかけた。「おぎん! おぎん! お前には悪魔がついたのだよ。祈っておくれ。祈っておくれ。」 しかしおぎんは返事をしない。ただ眼は大勢の見物の向うの、天蓋のように枝・・・ 芥川竜之介 「おぎん」
・・・河童は我々人間が河童のことを知っているよりもはるかに人間のことを知っています。それは我々人間が河童を捕獲することよりもずっと河童が人間を捕獲することが多いためでしょう。捕獲というのは当たらないまでも、我々人間は僕の前にもたびたび河童の国へ来・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・しかしわたしはそれらの背後に、もう一つ、――いや、それよりも遥かに意味の深い、興味のある特色を指摘したい。その特色とは何であるか? それは道徳的意識に根ざした、何物をも容赦しないリアリズムである。 菊池寛の感想を集めた「文芸春秋」の中に・・・ 芥川竜之介 「「菊池寛全集」の序」
・・・見るとMは遥かむこうの方で私と同じようなことをしています。私は駈けずりまわりながらも妹の方を見ることを忘れはしませんでした。波打際から随分遠い所に、波に隠れたり現われたりして、可哀そうな妹の頭だけが見えていました。 浜には船もいません、・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・ただ耳を澄ますと、はるか遠くで馬鈴薯をこなしているらしい水車の音が単調に聞こえてくるばかりだった。 父は黙って考えごとでもしているのか、敷島を続けざまにふかして、膝の上に落とした灰にも気づかないでいた。彼はしょうことなしに監督の持って来・・・ 有島武郎 「親子」
・・・と青年との間の関係に対する理解がはるかに局限的であった。そうしてその思想が魔語のごとく当時の青年を動かしたにもかかわらず、彼が未来の一設計者たるニイチェから分れて、その迷信の偶像を日蓮という過去の人間に発見した時、「未来の権利」たる青年の心・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・後へ後へと群り続いて、裏山の峰へ尾を曳いて、遥かに高い処から、赤い滝を落し懸けたのが、岩に潜ってまた流れる、その末の開いた処が、目の下に見える数よ。最も遠くの方は中絶えして、一ツ二ツずつ続いたんだが、限りが知れん、幾百居るか。 で、何の・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・両国橋の落ちたる話も、まず聞いて耳に響くはあわれなる女の声の――人雪頽を打って大川の橋杭を落ち行く状を思うより前に――何となく今も遥かに本所の方へ末を曳いて消え行く心地す。何等か隠約の中に脈を通じて、別の世界に相通ずるものあるがごとくならず・・・ 泉鏡花 「遠野の奇聞」
出典:青空文庫