・・・「私も牧野さんに頼まれたから、一度は引き受けて見たようなものの、万一ばれた日にゃ大事だと、無事に神戸へ上がるまでにゃ、随分これでも気を揉みましたぜ。」「へん、そう云う危い橋なら、渡りつけているだろうに、――」「冗談云っちゃいけな・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・あらこんなに眼の下を蚯蚓ばれにして兄さん、御免なさいと仰有いまし。仰有らないとお母さんにいいつけますよ。さ」 誰が八っちゃんなんかに御免なさいするもんか。始めっていえば八っちゃんが悪いんだ。僕は黙ったままで婆やを睨みつけてやった。 ・・・ 有島武郎 「碁石を呑んだ八っちゃん」
・・・おとよさんやおはまや、晴ればれと元気のよい、毛の先ほども憎気のない人たちと打ち興じて今日も稲刈りかということが、何となしうれしく楽しくなってきた。 太陽はまだ地平線にあらわれないが、隣村のだれかれ馬をひいてくるものもある。荷車をひいてく・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ きょうは早く行って、あの男またはその他の人に呼ばれないうちに、吉弥めをあげ、一つ精一杯なじってやろうと決心して、井筒屋へ行った。湯から帰ってすぐのことであった。「叔母さん」僕もここの家族の言いならしに従って、お貞婆アさんをそう呼ぶ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・結局は甲冑の如く床の間に飾られ、弓術の如く食後の腹ごなしに翫ばれ、烏帽子直垂の如く虫干に昔しを偲ぶ種子となる外はない。津浪の如くに押寄せる外来思想は如何なる高い防波堤をも越して日一日も休みなく古い日本の因襲の寸を削り尺を崩して新らしい文明を・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・そのうちに彼は晴ればれとした往来へ出ても、自分に萎びた古手拭のような匂いが沁みているような気がしてならなくなった。顔貌にもなんだかいやな線があらわれて来て、誰の目にも彼の陥っている地獄が感づかれそうな不安が絶えずつきまとった。そして女の諦め・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ウォーズウォルスのいわゆる『一年の熱去り、気は水のごとくに澄み、天は鏡のごとくに磨かれ、光と陰といよいよ明らかにして、いよいよ映照せらるる時』である、気が晴ればれする、うちにもどこか引き緊まるところがあって心が浮わつかない。断行する・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・「ウン招ばれたが乃公は行かん!」と例の太い声で先生は答えた。実は招かれていないのである。大津は何と思ったかその旧師を招かなかった。「貴様はどうじゃ?」「大津の方からこの頃は私を相手にせんようですから別に招もしません」「招んだ・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・ すぐばれてしまうじゃないか。これをかくしておくことが肝腎なんじゃ。」 彼は部屋の中を見まわした。どこへかくしたものかな。――壁の外側に取りつけた戸袋に、二枚の戸を閉めると丁度いゝだけの隙があった。そこへ敷布団から例のものを出して、二寸・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・吾家の母さんが与惣次さんところへ招ばれて行った帰路のところへちょうどおまえが衝突ったので、すぐに見つけられて止められたのだが、後で母様のお話にあ、いくら下りだって甲府までは十里近くもある路を、夜にかかって食物の準備も無いのに、足ごしらえも無・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
出典:青空文庫