・・・それでわれ知らず日蔭者のように、七、八日奥座敷を出ずにいる。家の人たちも省作の心は判然とはわからないが、もう働いたらよかろうともえ言わないで好きにさしておく。 この間におはまは小さな胸に苦労をしながら、おとよ方に往復して二人の消息を取り・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・これからどうしてもおとよの話に移る順序であれど、日影はいつしかえん側をかぎって、表の障子をがたぴちさせいっさんに奥へ二人の子供が飛びこんできた。「おばあさんただいま」「おばあさんただいま」 顔も手も墨だらけな、八つと七つとの重蔵・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・三時頃の薄い日影が庭半分にさしていて、梅の下には蕗の薹が丈高くのびて白い花が見えた。庭はまだ片づいていてそんなに汚くなかった。物置も何もなく、母家一軒の寂しい家であった。庭半分程這入って行くと、お松は母と二人で糸をかえしていて、自分達を認め・・・ 伊藤左千夫 「守の家」
・・・今日では何も昔のように社会の落伍者、敗北者、日蔭者と肩身を狭く謙り下らずとも、公々然として濶歩し得る。今日の文人は最早社会の寄生虫では無い、食客では無い、幇間では無い。文人は文人として堂々社会に対する事が出来る。 今日の若い新らしい作家・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
ある、小学校の運動場に、一本の大きな桜の木がありました。枝を四方に拡げて、夏になると、その木の下は、日蔭ができて、涼しかったのです。 子供たちは、たくさんその木の下に集まりました。中には、登って、せみを捕ろうとするものがあれば、ま・・・ 小川未明 「学校の桜の木」
・・・光治は、しばらくそこに立って、じいさんを見送っていますと、その姿は日影の彩るあちらの森の方に消えてしまったのでありました。 その日から光治は野に出て、一人でその笛を吹くことをけいこしたのであります。その笛はじつに不思議な笛で、いろいろな・・・ 小川未明 「どこで笛吹く」
光線の明るく射す室と、木影などが障子窓に落ちて暗い日蔭の室とがある。 其等の、さま/″\の室の中には生活を異にし、気持を異にした、いろ/\な、相互いに顔も知り合わないような人が住んでいる。 賑かな町に住んでいる人は、心を浮き立・・・ 小川未明 「夕暮の窓より」
・・・外はクワッと目映しいほどよい天気だが、日蔭になった町の向うの庇には、霜が薄りと白く置いて、身が引緊るような秋の朝だ。 私が階子の踏子に一足降りかけた時、ちょうど下から焚落しの入った十能を持って女が上ってきた。二十七八の色の青い小作りの中・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・新聞記者は治に居て乱を忘れなかったのだ。日蔭者自殺を図るなどと同情のある書き方だった。柳吉は葬式があるからと逃げて行き、それきり戻って来なかった。種吉が梅田へ訊ねに行くと、そこにもいないらしかった。起きられるようになって店へ出ると、客が慰め・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・磧に面した家々が、そこに午後の日蔭を作っていた。 護岸工事に使う小石が積んであった。それは秋日の下で一種の強い匂いをたてていた。荒神橋の方に遠心乾燥器が草原に転っていた。そのあたりで測量の巻尺が光っていた。 川水は荒神橋の下手で簾の・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
出典:青空文庫