・・・彼らのやって来るのは私の部屋の天井からである。日蔭ではよぼよぼとしている彼らは日なたのなかへ下りて来るやよみがえったように活気づく。私の脛へひやりととまったり、両脚を挙げて腋の下を掻くような模ねをしたり手を摩りあわせたり、かと思うと弱よわし・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・溪の風景は朝遅くまでは日影のなかに澄んでいる。やっと十時頃溪向こうの山に堰きとめられていた日光が閃々と私の窓を射はじめる。窓を開けて仰ぐと、溪の空は虻や蜂の光点が忙しく飛び交っている。白く輝いた蜘蛛の糸が弓形に膨らんで幾条も幾条も流れてゆく・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・窓の外の風景が次第に蒼ざめた空気のなかへ没してゆくとき、それがすでにただの日蔭ではなく、夜と名付けられた日蔭だという自覚に、彼の心は不思議ないらだちを覚えて来るのだった。「あああ大きな落日が見たい」 彼は家を出て遠い展望のきく場所を・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・夢現の境を漂うて夜のふくるをも知らざりしが、ふと心づきて急に床に入りたれど今は心さえてたやすくは眠るあたわず、明けがた近くなりてしばしまどろみぬと思うや、目さめし時は東の窓に映る日影珍しく麗かなり、階下にては母上の声す、続いて聞こゆる声はま・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・この時はちょうど午後一時ごろで冬ながら南方温暖の地方ゆえ、小春日和の日中のようで、うらうらと照る日影は人の心も筋も融けそうに生あたたかに、山にも枯れ草雑りの青葉少なからず日の光に映してそよ吹く風にきらめき、海の波穏やかな色は雲なき大空の色と・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・ 鍬かたげし農夫の影の、橋とともに朧ろにこれに映つる、かの舟、音もなくこれを掻き乱しゆく、見る間に、舟は葦がくれ去るなり。 日影なおあぶずりの端に躊ゆたうころ、川口の浅瀬を村の若者二人、はだか馬に跨りて静かに歩ます、画めきたるを見る・・・ 国木田独歩 「たき火」
・・・「じき其処なの、日蔭町の古着屋なの。」「おさんどんですか。」「ハア。」「まあ可哀そうに、やっと十五でしょう?」「私も可哀そうでならなかったけエど、つまり私の傍に居た処が苦しいばかりだし、又た結局あの人も暫時は辛い目に遇て・・・ 国木田独歩 「二少女」
・・・青い空の中へ浮上ったように広と潮が張っているその上に、風のつき抜ける日蔭のある一葉の舟が、天から落ちた大鳥の一枚の羽のようにふわりとしているのですから。 それからまた、澪釣でない釣もあるのです。それは澪で以てうまく食わなかったりなんかし・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・この間に日影の移る一寸一寸、一分一分、一厘一厘が、政元に取っては皆好ましい魔境の現前であったろう歟、業通自在の世界であったろうか、それは傍からは解らぬが、何にせよ長い長い月日を倦まずに行じていた人だ、倦まぬだけのものを得ていなくては続かぬ訳・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
千鳥の話は馬喰の娘のお長で始まる。小春の日の夕方、蒼ざめたお長は軒下へ蓆を敷いてしょんぼりと坐っている。干し列べた平茎には、もはや糸筋ほどの日影もささぬ。洋服で丘を上ってきたのは自分である。お長は例の泣きだしそうな目もとで・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
出典:青空文庫