・・・これ程費用が少くて快楽の多いものはなかろう、とは持論である。その日も例のように錦町から小川町の通りへ出た。そこここと尋ねあぐんで、やがてぶらぶら裏神保町まで歩いて行くと、軒を並べた本屋町が彼の眼前に展けた。あらゆる種類の書籍が客の眼を引くよ・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・単に物質だけの百一億円の損害でも、日露戦争の費用の五倍以上にあたり、全国富の十分の一を失ったわけです。われわれはおたがいに協同努力して一日も早くこの大負傷をいやすことにつとめなければなりません。これまで多くの人々はふだんの平和に甘えて、だら・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・ 二人の姉達は、世間並の費用と面倒とで、もう結婚して仕舞っていました。今は唖の末娘が両親の深い心がかりとなっています。世の中の人は、皆、彼女が物を云わないので、ちっとも物に感じない、とでも思っているようでした。彼女の行末のことだの、心配・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・地代だって先月からまた少しあがったし、それに税金やら保険料やら修繕費用なんかで相当の金をとられているのだ。ひとにめいわくをかけて素知らぬ顔のできるのは、この世ならぬ傲慢の精神か、それとも乞食の根性か、どちらかだ。甘ったれるのもこのへんでよし・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・挙式の費用など、てんで、どこからも捻出の仕様が無かったのである。当時、私は甲府市に小さい家を借りて住んでいたのであるが、その結婚式の日に普段着のままで、東京のその先輩のお宅へ参上したのである。その先輩のお宅で嫁と逢って、そうして先輩から、お・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・町の掃除人の妻にやった心附け、潜水夫にやった酒手、私立探偵事務所の費用なんぞである。 引き越したホテルはベルリン市のまるであべこべの方角にある。宿帳へは偽名をして附けた。なんでもホテルではおれを探偵だと思ったらしい。出入をするたびに、ホ・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・あるいは、これがいちばん費用がかからないためかとも思う。 こういう時代物の映画で俳優たちのいちばんスチューピッドに見えるのは、彼らが何かひとかどの分別ありげな思い入れをする瞬間である。深謀遠慮のある事を顔に出そうとすればするほどスチュー・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
・・・同時に非常に長い時間と多大な費用を節約し得られるのである。ある映画監督は猫が鼠を捕る光景を撮るために七十時間とそれに相当するフィルムを費やしたそうである。 極めて平凡なものの観察でさえも映画によって始めて可能な利益があるとすれば、映画技・・・ 寺田寅彦 「教育映画について」
・・・そしてそれに紅白、あるいは紺と白と継ぎ分けた紙の尾を幾条もつけて、西北の季節風に飛揚させる。刈り株ばかりの冬田の中を紅もめんやうこんもめんで頬かぶりをした若い衆が酒の勢いで縦横に駆け回るのはなかなか威勢がいい、近辺のスパルタ人種の子供らはめ・・・ 寺田寅彦 「田園雑感」
・・・これは南から来る暖かい風がこの境界線から地面を離れて中層へあがりその下へ北から来る寒風がもぐり込んでいるのだという事は、当時各地で飛揚した測風気球の観測からも確かめられている。そのために中層へは南方から暖かい空気が舌を出したような形になって・・・ 寺田寅彦 「凍雨と雨氷」
出典:青空文庫