・・・ 笑いながら濃い長い髪が額へ落ちかかって来るのを平手で撫で上げ撫で上げしながら窓の外にしげる楓の若葉越しにせわしく動いて居る隣りの家の女中の黒い影坊師を見て居た。 何です? 千世子は其の方を見ながらきいた。「影っ・・・ 宮本百合子 「千世子(三)」
・・・ いきなり、子供の頬に、かたい平手が飛んで、見て居る者の耳がキーンと云うほどいやな音をたてた。 斯うして小さい人間共の争いは起って仕舞った。年上のものは力にまかせて小さいものを打ったり、突き飛ばしたり、小突いたりして、一言も声はたて・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・それと同時に氷のように冷たい物が、たった今平手がさわったと思うところから、胸の底深く染み込んだ。何とも知れぬ温い物が逆に胸から咽へのぼった。甘利は気が遠くなった。 三河勢の手に余った甘利をたやすく討ち果たして、髻をしるしに切り取った・・・ 森鴎外 「佐橋甚五郎」
・・・を繰り返しながら、平手で人を分けるようにして、入口と反対の側の、格子窓のある方へ行く。僕は黙って跡に附いて行った。 蔀君のさして行く格子窓の下の所には、外の客と様子の変った男がいる。しかも随分込み合っている座敷なのに、その人の周囲は空席・・・ 森鴎外 「百物語」
・・・さっきから幾つかのボタンをはずしていた手袋をぬいで、卓越しに右の平手を出すのである。渡辺は真面目にその手をしっかり握った。手は冷たい。そしてその冷たい手が離れずにいて、暈のできたために一倍大きくなったような目が、じっと渡辺の顔に注がれた。・・・ 森鴎外 「普請中」
出典:青空文庫