・・・ために大地は熱し、石は焼け、瓦は火を発せんばかりとなり、そして、河水は渇れ、生命あるもの、なべてうなだれて見えるのに、一抹の微小なる雲が、しかも太陽直下の大空に生れて成長するのを、私は不思議とせずにいられないのだ。 社会について考えるも・・・ 小川未明 「常に自然は語る」
・・・私はまだこの女の微笑した顔を見ていない、とふと思った。 そして、私もこの女の前で一度も微笑したことはない……。 女はますます仮面のような顔になった。「ほんまに、あの人くらい下劣な人はあれしませんわ」「そうですかね。そんな下劣・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・ それはもう式も間近かに迫ったある日のこと、はたの人にすすめられて、美粧院へ行ったかえり、心斎橋筋の雑閙のなかで、ちょこちょここちらへ歩いて来るあの人の姿を見つけ、あらと立ちすくんでいると、向うでも気づき、えへっといった笑い顔で寄って来・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・Kは彼の顔を見るなり、鋭い眼に皮肉な微笑を浮べて、「君の処へも山本山が行ったろうね?」と訊いた。「あ貰ったよ。そう/\、君へお礼を云わにゃならんのだっけな」「お礼はいゝが、それで別段異状はなかったかね?」「異状? ……」彼に・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ 夫人は微笑とともに振り向いた。そしてそれを私の方へ抛って寄来した。取りあげて見ると、やはり猫の手なのである。「いったい、これ、どうしたの!」 訊きながら私は、今日はいつもの仔猫がいないことや、その前足がどうやらその猫のものらし・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・ 彼は頭を上げては水車を見、また画板に向う、そして折り折りさも愉快らしい微笑を頬に浮べていた。彼が微笑するごとに、自分も我知らず微笑せざるを得なかった。 そうする中に、志村は突然起ち上がって、その拍子に自分の方を向いた、そして何にも・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
・・・薄荷のようにひりひりする唇が微笑している。 彼は、嫉妬と憤怒が胸に爆発した。大隊を指揮する、取っておきのどら声で怒なりつけようとした。その声は、のどの最上部にまで、ぐうぐう押し上げて来た。 が、彼は、必死の努力で、やっとそれを押しこ・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・そして他の若い無邪気な同窓生から大噐晩成先生などという諢名、それは年齢の相違と年寄じみた態度とから与えられた諢名を、臆病臭い微笑でもって甘受しつつ、平然として独自一個の地歩を占めつつ在学した。実際大噐晩成先生の在学態度は、その同窓間の無邪気・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・ こうおげんの方から言うと、熊吉は、額のところに手をあてて、いくらか安心したような微笑を見せた。「俺にそんなところへ入れという話なら、真平」とまたおげんが言った。「俺はそんな病人ではないで。何だかそんなところへ行くと余計に悪くなるよ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ この群の跡から付いて来た老人は今の青年の叫声を聞くや否や、例のしっかりした、早い歩き付きで二足進んで、日に焼けた顔に思い切った幅広な微笑を見せて、人の好げた青い目を面白げに、さも人を信ずるらしく光らせて、青年の前に来て、その顔を下から・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
出典:青空文庫