・・・きょう未明メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里はなれた此のシラクスの市にやって来た。メロスには父も、母も無い。女房も無い。十六の、内気な妹と二人暮しだ。この妹は、村の或る律気な一牧人を、近々、花婿として迎える事になっていた。結婚式も間近・・・ 太宰治 「走れメロス」
・・・ ☆ 東京では、昭和六年の元旦に、雪が降った。未明より、ちらちら降りはじめ、昼ごろまでつづいた。ひる少しすぎ、戸山が原の雑木の林の陰に、外套の襟を立て、無帽で、煙草をふかしながら、いらいら歩きまわっている男が・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・批判を国家的に膨脹して、自己の勢力を張るの具となすならば、政府はまた文芸委員を文芸に関する最終の審判者の如く見立てて、この機関を通して、尤も不愉快なる方法によって、健全なる文芸の発達を計るとの漠然たる美名の下に、行政上に都合よき作物のみを奨・・・ 夏目漱石 「文芸委員は何をするか」
・・・彼は一片の麺麭も食わず一滴の水さえ飲まず、未明より薄暮まで働き得る男である。年は二十六歳。それで戦が出来ぬであろうか。それで戦が出来ぬ位なら武士の家に生れて来ぬがよい。ウィリアム自身もそう思っている。ウィリアムは幻影の盾を翳して戦う機会があ・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・軍部の煽動にのって若い女性が、明日にかくされている生活の破滅に向ってヒロイズムでごまかされないように、戦争的美名にかくされた資本主義の搾取の現実を見とおすように、荒くれたかぶった世間の気風のうちに、ひとすじの人間らしさと、その発展のための努・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第十五巻)」
・・・ロマンティックな傾向に立って文学的歩み出しをしていた藤森成吉、秋田雨雀、小川未明等の若い作家たちは、新たに起ったこの文学的潮流に身を投じ、従来の作家の生い立ちとは全くちがった生活の閲歴を持った前田河広一郎、中西伊之助、宮地嘉六等の作家たちと・・・ 宮本百合子 「昭和の十四年間」
・・・人類の理性と意志とは、様々な架空の名目、美名で人民同士が互に殺戮しあうような偽瞞の誇りや愛国心にまどわされていてはならない。戦争で底の底までの被害をうけたのは、どこの国でも、人民男女とその子供たちであった。その損害から恢復するための援助とい・・・ 宮本百合子 「戦争はわたしたちからすべてを奪う」
・・・ポーの小説集二冊を母が何かの拍子で買って来てくれたことから、次第に私の本棚にはワイルドだの、小川未明だの、ダヌンツィオだのが加って行った。ワイルド警句集という小型の本も今度出て来た。あけてみると、ところどころに赤鉛筆でマルがつけてある。・・・ 宮本百合子 「本棚」
・・・本間さんのところにいつしかもうそんなに大きい娘さんがたがおられるということ、私の少女時代に暗いロマンチックな作品をよんだことのある小川未明さんが今日では二十三歳になる若い女のかたの父親であられること。それらは、私に明治時代から今日までの社会・・・ 宮本百合子 「短い感想」
・・・○十二月一日 小川未明さんが、その小説の中に「いろいろの連想をもった自分には非常になつかしく思われるものも、他人にとっては、一文の価値さえないものだ」と云う事を書いて居られる。 そういう心持を私は、こちらに来て、幾度も考えさ・・・ 宮本百合子 「無題(二)」
出典:青空文庫