・・・ かるが故にわれは今なお牧場、森林、山岳を愛す、緑地の上、窮天の間、耳目の触るる所の者を愛す、これらはみなわが最純なる思想の錨、わが心わが霊及びわが徳性の乳母、導者、衛士たり。 ああわが最愛の友よ(妹ドラ嬢を指、汝今われと共にこの清・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・十日ばかりも居る積じゃったが癪に触ることばかりだったから三日居て出立て了った。今も話しているところじゃが東京に居る故国の者は皆なだめだぞ、碌な奴は一匹も居らんぞ!」 校長は全然何のことだか、煙に捲かれて了って言うべき言葉が出ない、ただ富・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・外套のポッケットに差し入れし手先に触るる物あるをかれは堅く握りて眼を閉じつ。 この時犬高くほえしかば、急ぎて路に出で口笛鋭く吹きつつ大股に歩みて野の方に向かい、おりおり空を仰ぎては眉をひそめぬ。空は雲の脚はやく、絶え間絶え間には蒼空の高・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・ たとい彼らにとって当面には、そして現実身辺には、合理的知性の操練と、科学知の蓄積とが適当で、かつユースフルであろうとも、彼らの宇宙的存在と、霊的の身分に関しては、彼らが本来合理的平民の子ではなくして、神秘的の神の胤であることを耳に吹き・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・しばらく、さら/\と降る雪の音ばかりがあった。「一っぺん病院へ引っかえせ!」相変らず、軍医の声は悄然としていた。「雪が降るからですか?」 誰れかがきいた。「うゝむ。」「じゃ、雪がやんだら帰れるんですね?」 返事がなか・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・ 痛くない方の手を振ると、伝令は、よう/\栗本に気がついたらしかった。が二人の間には、膝から下を切断し、おまけに腹膜炎で海豚のように腹がふくれている患者が担架で運んで来られ、看護卒がそれを橇へ移すのに声を喧嘩腰にしていた。栗本は田口がや・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・ 豪胆で殺伐なことが好きで、よく銃剣を振るって、露西亜人を斬りつけ、相手がない時には、野にさまよっている牛や豚を突き殺して、面白がっていた、鼻の下に、ちょんびり髭を置いている屋島という男があった。「こういうこた、内地へ帰っちゃとても・・・ 黒島伝治 「雪のシベリア」
・・・ところは寂びたり、人里は遠し、雨の小止をまたんよすがもなければ、しとど降る中をひた走りに走らす。ようやく寺尾というところにいたりたる時、路のほとりに一つ家の見えければ、車ひく男駆け入りて、おのれらもいこい、我らをもいこわしむ。男らの面を見れ・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・如何にも其様な悪びれた小汚い物を暫時にせよ被ていたのが癇に触るので、其物に感謝の代りに怒喝を加えて抛棄てて気を宜くしたのであろう。もっとも初から捨てさせるつもりで何処ぞで呉れ、捨てるつもりで被て来たには相違無いわびしいものであった。 少・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・ムネイタイノ、ト君チャンガキクト、イヤト頭ヲフルノ。アトニナッテ、又ムネイタイノ、トキクト、ダマッテ目ヲツブッテ、ソレカラムネナンテ何ンデモナイ、ト云ッテ、君チャンノカオヲ見、何ンベンモソットナミダヲフイテルノ。 オ母ッチャモヤセテ、目・・・ 小林多喜二 「テガミ」
出典:青空文庫