・・・ 三十前後の、ヒョロヒョロと痩せて背の高い、放心したような表情の男だったが、眉には神経質らしい翳があり、こういう男はえてして皮肉なのだろうか。「ほな、何弁を使うたらいいねン……?」「詭弁でも使うさ」 男はひとりごとのように、・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・前の大きな鏡に映る蒼黒い、頬のこけた、眼の落凹んだ自分の顔を、他人のものかのように放心した気持で見遣りながら、彼は延びた頭髪を左の手に撫であげ/\、右の手に盃を動かしていた。そして何を考えることも、何を怖れるというようなことも、出来ない程疲・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・それで昨夜チチシスのシがアの字の間違いであったことがすぐ気づかれてホッと安心の太息をついたが、同時に何かしら憑き物にでも逃げだされたような放心の気持と、禅に凝ってるのではないかと言った弟の言葉が思いだされて、顔の赧くなるのを感じた。……・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・という根本的な方針が、既に、一年前に確立され、質的飛躍の第一歩がふみだされているとき、工場労働者とはちがった特殊な生活条件、地理環境、習慣、保守性等を持った農民、そして、それらのいろいろな条件に支配される農民の欲求や感情や、感覚などを、プロ・・・ 黒島伝治 「農民文学の問題」
・・・自作農として出発させたい考えで、余分なものはいっさいあてがわない方針を執った。 都会の借家ずまいに慣れた目で、この太郎の家を見ると、新規に造った炉ばたからしてめずらしく、表から裏口へ通り抜けられる農家風の土間もめずらしかった。奥もかなり・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・この東京行は、おげんに取って久しく見ない弟達を見る楽しみがあり、その弟達に逢ってこれから将来の方針を相談する楽みがあった。彼女はしばらくお新を手放さねば成らなかった。三月ばかり世話になった婆やにも暇を告げねばならなかった。東京までの見送りと・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ とうさんがこの新しい方針を選んで進もうとするのは、いろいろ前途を熟考した上での結果です。とうさんもこのまま老い朽ちてしまいたくないからです。何とか自分の生活を立て直し、適当な内助者を得て、今よりも自然に静かな晩年に達したいと思うからで・・・ 島崎藤村 「再婚について」
・・・相川は原の言葉を遮って、「その何さ――これからの方針さ。もう君、一生の事業に取掛っても可かろう」「それには僕はこういうことを考えてる」と原は濃い眉を動して、「一つ図書館をやって見たいと思ってる」「むむ、図書館も面白かろう」と相川は力・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・君たち学生は、いや、僕だって同じようなものだが、努力の方針を見失っているだけだ。いや、その表現を失っているだけだ。学問の持って行きどころが無いじゃないか。世の中が、君たちのその胸の中に埋もれている誠実を理解してくれないだけのことだ。姉に捨て・・・ 太宰治 「花燭」
・・・その時のジャアナリズムが、政府の方針を顧慮し過ぎて、自分の小説の発表を拒否する事が、もし万一あったとしても、自分は黙って書いて行きます。発表せずとも、書き残して置くつもりです。自分は明白に十九世紀の人間です。二十世紀の新しい芸術運動に参加す・・・ 太宰治 「風の便り」
出典:青空文庫