・・・甚太夫は菖蒲革の裁付に黒紬の袷を重ねて、同じ紬の紋付の羽織の下に細い革の襷をかけた。差料は長谷部則長の刀に来国俊の脇差しであった。喜三郎も羽織は着なかったが、肌には着込みを纏っていた。二人は冷酒の盃を換わしてから、今日までの勘定をすませた後・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
文政四年の師走である。加賀の宰相治修の家来に知行六百石の馬廻り役を勤める細井三右衛門と云う侍は相役衣笠太兵衛の次男数馬と云う若者を打ち果した。それも果し合いをしたのではない。ある夜の戌の上刻頃、数馬は南の馬場の下に、謡の会・・・ 芥川竜之介 「三右衛門の罪」
・・・心細いほど真直な一筋道を、彼れと彼れの妻だけが、よろよろと歩く二本の立木のように動いて行った。 二人は言葉を忘れた人のようにいつまでも黙って歩いた。馬が溺りをする時だけ彼れは不性無性に立どまった。妻はその暇にようやく追いついて背の荷をゆ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・動かないように、椅子に螺釘留にしてある、金属のの上に、ちくちくと閃く、青い焔が見えて、の縁の所から細い筋の烟が立ち升って、肉の焦げる、なんとも言えない、恐ろしい臭が、広間一ぱいにひろがるようである。 フレンチが正気附いたのは、誰やらが袖・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ と引いて縋る、柔い細い手を、謹三は思わず、しかと取った。 ――いかになるべき人たちぞ…大正九年十月 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・わりあいに顔のはば広く、目の細いところ、土佐絵などによく見る古代女房の顔をほんものに見る心持ちがした。富士のふもと野の霜枯れをたずねてきて、さびしい宿屋に天平式美人を見る、おおいにゆかいであった。 娘は、お中食のしたくいたしましょうかと・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・或る時尋ねると、極細い真書きで精々と写し物をしているので、何を写しているかと訊くと、その頃地学雑誌に連掲中の「鉱物字彙」であった。ソンナものを写すのは馬鹿馬鹿しい、近日丸善から出版されるというと、そうか、イイ事を聞いた、無駄骨折をせずとも済・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・そして、やっと地の上に伸びたばかりの木の芽は、小さな葉がしぼんで、細い幹は乾いて、ついに枯れてしまいました。 太陽は、そのことには気づかずに、日暮れ方まで下界を照らしていました。二 幸福の島 ある国にあった話です。人々は・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・ 貝殻を敷いた細い穢い横町で、貧民窟とでもいいそうな家並だ。山本屋の門には火屋なしのカンテラを点して、三十五六の棒手振らしい男が、荷籠を下ろして、売れ残りの野菜物に水を与れていた。私は泊り客かと思ったら、後でこの家の亭主と知れた。「・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・夜になれば、また雨戸が閉って、あの重く濁った空気を一晩中吸わねばならぬのかと思うと、痩せた胸のあたりがなんとなく心細い。たまらなかった。 夜雨戸を閉めるのはいずれ女中の役目だろう故、まえもってその旨女中にいいつけて置けば済むというものの・・・ 織田作之助 「秋深き」
出典:青空文庫