・・・俺は馬車の止まる拍子にやっと後ずさりをやめることが出来た。しかし不思議はそれだけではない。俺はほっと一息しながら、思わず馬車の方へ目を転じた。すると馬は――馬車を牽いていた葦毛の馬は何とも言われぬ嘶きかたをした。何とも言われぬ?――いや、何・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・そこで、娘も漸く、ほっと一息つく事が出来ました。」「私も、やっと安心したよ。」 青侍は、帯にはさんでいた扇をぬいて、簾の外の夕日を眺めながら、それを器用に、ぱちつかせた。その夕日の中を、今しがた白丁が五六人、騒々しく笑い興じながら、・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・ 立って見たら水が膝の所位しかない所まで泳いで来ていたのはそれからよほどたってのことでした。ほっと安心したと思うと、もう夢中で私は泣声を立てながら、「助けてくれえ」 といって砂浜を気狂いのように駈けずり廻りました。見るとMは遥か・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・産婆が雪で真白になってころげこんで来た時は、家中のものが思わずほっと気息をついて安堵したが、昼になっても昼過ぎになっても出産の模様が見えないで、産婆や看護婦の顔に、私だけに見える気遣いの色が見え出すと、私は全く慌ててしまっていた。書斎に閉じ・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・――もっと深入した事は、見たまえ、ほっとした草臥れた態で、真中に三方から取巻いた食卓の上には、茶道具の左右に、真新しい、擂粉木、および杓子となんいう、世の宝貝の中に、最も興がった剽軽ものが揃って乗っていて、これに目鼻のつかないのが可訝いくら・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・……ほっとして、。(森の祠の、金勢明神 話に聞いた振袖新造が――台のものあらしといって、大びけ過ぎに女郎屋の廊下へ出ましたと――狸に抱かれたような声を出して、夢中で小一町駆出しましたが、振向いても、立って待っ・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ こうして客引きが出迎えているところを見ると、こんな夜更けに着く客もあるわけかとなにかほっとした。それにしても、この客引きのいる宿屋は随分さびれて、今夜もあぶれていたに違いあるまいと思った。あとでこの温泉には宿屋はたった一軒しかないこと・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・さア、お腹は空いてくるわ、なんぼ泣いてもほっとかれるわ。お襁褓もかえてくれんわ。踏んだり蹴ったりや。蹴ったくそわるいさかい、オギアオギアせえだい泣いてるとこイ、ええ、へっつい直しというて、天びん担いで、へっつい直しが廻ってきよって、事情きく・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ Kは斯う警戒する風もなく、笑顔を見せて迎えて呉れると、彼は初めてほっとした安心した気持になって、ぐたりと坐るのであった。それから二人の間には、大抵次ぎのような会話が交わされるのであった。「……そりゃね、今日の処は一円差上げることは・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・家を捜すのにほっとすると、実験装置の器具を注文に本郷へ出、大槻の下宿へ寄った。中学校も高等学校も大学も一緒だったが、その友人は文科にいた。携わっている方面も異い、気質も異っていたが、彼らは昔から親しく往来し互いの生活に干渉し合っていた。こと・・・ 梶井基次郎 「雪後」
出典:青空文庫