・・・道太の姉や従姉妹や姪や、そんな人たちが、次ぎ次ぎににK市から来て、山へ登ってきていたが、部屋が暑苦しいのと、事務所の人たちに迷惑をかけるのを恐れて、彼はK市で少しほっとしようと思って降りてきた。「何しろ七月はばかに忙しい月で、すっかり頭・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・いつも継母に叱られると言って、帰りをいそぐ娘もほっと息をついて、雪にぬらされた銀杏返の鬢を撫でたり、袂をしぼったりしている。わたくしはいよいよ前後の思慮なく、唯酔の廻って来るのを知るばかりである。二人の間に忽ち人情本の場面がそのまま演じ出さ・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・ 余はようやくほっと息をつく。咽喉に痞えている鉛の丸が下りたような気持ちがする。「これは御親切に、どうも、――いえ別に何も盗難に罹った覚はないようです」「それなら宜しゅう御座います。毎晩犬が吠えておやかましいでしょう。どう云うも・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・気取る訳にもどうする訳にも行かん、両手は塞っている、腰は曲っている、右の足は空を蹴ている、下りようとしても車の方で聞かない、絶体絶命しようがないから自家独得の曲乗のままで女軍の傍をからくも通り抜ける。ほっと一息つく間もなく車はすでに坂を下り・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・オオビュルナンはほっと息を衝いた。「そうだ。マドレエヌの所へ友達の女が来ていてそれがやっと今帰って行ったのだな。」こう思ってまた五六分間待った。そのうちそろそろ我慢がし切れなくなった。余り人を馬鹿にしているじゃないか。オオビュルナンはどこか・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・らかに箱根街道のぼり行けば鵯の声左右にかしましく 我なりを見かけて鵯の鳴くらしき 色鳥の声をそろへて渡るげな 秋の雲滝をはなれて山の上 病みつかれたる身の一足のぼりては一息ほっとつき一坂のぼりては巌端に尻をやすむ・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・女の子は小さくほっと息をしてだまって席へ戻りました。カムパネルラが気の毒そうに窓から顔を引っ込めて地図を見ていました。「あの人鳥へ教えてるんでしょうか。」女の子がそっとカムパネルラにたずねました。「わたり鳥へ信号してるんです。きっと・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・ シグナレスはほっと小さなため息をついて空を見上げました。空にはうすい雲が縞になっていっぱいに充ち、それはつめたい白光を凍った地面に降らせながら、しずかに東に流れていたのです。 シグナレスはじっとその雲の行く方をながめました。それか・・・ 宮沢賢治 「シグナルとシグナレス」
・・・凄く光る眼に宙を見て形のない或るものに誓う様にお龍は云った。ホット息をついてポンとひざの本(に本をなげた時にはもう障子の紙はうす黒くなって居た。午すぎすぐから今まで息もつかずによんで居た自分の真面目さと新らしい気持になったうれしさにはれやか・・・ 宮本百合子 「お女郎蜘蛛」
・・・私はこれまで父が気の毒であったのが、ほっとしたようです。父は深く母を愛していた。そのことは私の想像以上のことでした。だんだんそれが分って、しかもしんからそれのわかるのは様々の意味で私一人であり、けれども父のおもりをして国府津にくらすことは不・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
出典:青空文庫