・・・するとなぜかまぶたの裏が突然熱くなるような気がした。「泣いちゃいけない。」――彼は咄嗟にそう思った。が、もうその時は小鼻の上に涙のたまるのを感じていた。「莫迦だね。」 母はかすかに呟いたまま、疲れたようにまた眼をつぶった。 顔を・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ ところが、式がだんだん進んで、小宮さんが伸六さんといっしょに、弔辞を持って、柩の前へ行くのを見たら、急にまぶたの裏が熱くなってきた。僕の左には、後藤末雄君が立っている。僕の右には、高等学校の村田先生がすわっている。僕は、なんだか泣くの・・・ 芥川竜之介 「葬儀記」
・・・しかし僕はその話のうちにいつかが熱くなっていた。僕の父も肉の落ちた頬にやはり涙を流していた。 僕の父はその次の朝に余り苦しまずに死んで行った。死ぬ前には頭も狂ったと見え「あんなに旗を立てた軍艦が来た。みんな万歳を唱えろ」などと言った。僕・・・ 芥川竜之介 「点鬼簿」
・・・――さっきから月を眺めて月を眺めないお君さんが、風に煽られた海のごとく、あるいはまた将に走らんとする乗合自動車のモオタアのごとく、轟く胸の中に描いているのは、実にこの来るべき不可思議の世界の幻であった。そこには薔薇の花の咲き乱れた路に、養殖・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・彼女は今まで知らなかった涙が眼を熱くし出すと、妙に胸がわくわくして来て、急に深淵のような深い静かさが心を襲った。クララは明かな意識の中にありながら、凡てのものが夢のように見る見る彼女から離れて行くのを感じた。無一物な清浄な世界にクララの魂だ・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・その娘は何でも目に見えるものを皆優しい両手で掻き抱き、自分の胸に押しつけたいと思うような気分で、まず晴れ渡った空を仰いで見て、桜の木の赤味を帯びた枝の方を見て、それから庭の草の上に寝ころんで顔を熱く照らす日に向けて居た。しかしそれも退屈だと・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ 一言あたかも百雷耳に轟く心地。「おお、もう駒を並べましたね、あいかわらず性急ね、さあ、貴下から。」 立花はあたかも死せるがごとし。「私からはじめますか、立花さん……立花さん……」 正にこの声、確にその人、我が年紀十四の・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ 心は轟く、脉は鳴る、酒の酔を円タクに蒸されて、汗ばんだのを、車を下りてから一度夜風にあたった。息もつかず、もうもうと四面の壁の息を吸って昇るのが草いきれに包まれながら、性の知れない、魔ものの胴中を、くり抜きに、うろついている心地がする・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・汽車は轟く。街樹は流るる。「誰の麁そそうじゃい。」 と赤ら顔はいよいよ赤くなって、例の白目で、じろり、と一ツずつ、女と、男とを見た。 彼は仰向けに目を瞑った。瞼を掛けて、朱を灌ぐ、――二合壜は、帽子とともに倒れていた――そして、・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・ ト突出た廂に額を打たれ、忍返の釘に眼を刺され、赫と血とともに総身が熱く、たちまち、罪ある蛇になって、攀上る石段は、お七が火の見を駆上った思いがして、頭に映す太陽は、血の色して段に流れた。 宗吉はかくてまた明神の御手洗に、更に、氷に・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
出典:青空文庫