・・・少年時代からの親交であって度々鴎外の家に泊った事のある某氏の咄でも、イツ寝るのかイツ起きるのか解らなかったそうだ。 鴎外の花園町の家の傍に私の知人が住んでいて、自分の書斎と相面する鴎外の書斎の裏窓に射す燈火の消えるまで競争して勉強するツ・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・ 二郎は、また、砂山の下を、顔まで半分隠れそうに、帽子を目深にかぶって、洋服を着た人が、歩いているのを見ました。 そして、しばらくすると、赤い船の姿はうすれ、洋服を着た人の姿もうすれてしまいました。 二郎は、まるで夢を見ているよ・・・ 小川未明 「赤い船のお客」
・・・幼弱者虐待防止案といい、欠食児童救済事業といい、このあらわれに他ありません。これとて多数者でなかったら、恐らく見殺しにされて問題とはならなかったでしょう。これは、比較的外面の事実であるが、なほ、焦眉の応策を要するものに、思想問題がありました・・・ 小川未明 「近頃感じたこと」
・・・「強情ね、いったい何の用」「用はない言うてまんがな。分らん人やな」 大阪弁が出たので、紀代子はちらと微笑し、「用がないのに踉けるのん不良やわ。もう踉けんときでね。学校どこ?」「帽子見れば分りまっしゃろ」「あんたとこの・・・ 織田作之助 「雨」
・・・横井は斯う云って、つくばったまゝ腰へ手を廻して剣の柄を引寄せて見せ、「見給え、巡査のとは違うじゃないか。帽子の徽章にしたって僕等のは金モールになってるからね……ハヽ、この剣を見よ! と云いたい処さ」横井は斯う云って、再び得意そうに広い肩・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ 最後の拍手とともに人びとが外套と帽子を持って席を立ちはじめる会の終わりを、私は病気のような寂寥感で人びとの肩に伍して出口の方へ動いて行った。出口の近くで太い首を持った背広服の肩が私の前へ立った。私はそれが音楽好きで名高い侯爵だというこ・・・ 梶井基次郎 「器楽的幻覚」
・・・各粗末なしかも丈夫そうな洋服を着て、草鞋脚絆で、鉄砲を各手に持って、いろんな帽子をかぶって――どうしても山賊か一揆の夜討ちぐらいにしか見えなかった。 しかし一通りの山賊でない、図太い山賊で、かの字港まで十人が勝手次第にしゃべって、随分や・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・ スメターニンは、毛皮の帽子をぬいで額の汗を拭いた。 九 薄く、そして白い夕暮が、曠野全体を蔽い迫ってきた。 どちらへ行けばいいのか! 疲れて、雪の中に倒れ、そのまま凍死してしまう者があるのを松木はたびたび聞・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・それは、いつもの通りに、古代の人のような帽子――というよりは冠を脱ぎ、天神様のような服を着換えさせる間にも、いかにも不機嫌のように、真面目ではあるが、勇みの無い、沈んだ、沈んで行きつつあるような夫の様子で、妻はそう感じたのであった。 永・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・ 見るとその三四の郵便物の中の一番上になっている一封の文字は、先輩の某氏の筆であることは明らかであった。そして名宛の左側の、親展とか侍曹とか至急とか書くべきところに、閑事という二字が記されてあった。閑事と表記してあるのは、急を要する用事・・・ 幸田露伴 「野道」
出典:青空文庫