・・・と右手の拇指を見せた。「あら!」 友達は真顔になって、「いつ出来たの?」ときいた。「いつだか。――何年かの間にいつの間にか出来ちゃった。変でしょう? 三つもこんな魚の目みたいなものが拇指にばっかり出来るなんて……」・・・ 宮本百合子 「鼠と鳩麦」
・・・ 菊太は幾度も幾度も頭をさげて、乾いた筆の先を歯でつぶしてうすい墨を少しつけて蚯蚓の様な、消え消えな字をのたくらせて井出菊太と書いた下へ拇指を墨につけて印変りにする。 その間、祖母は一言もきかず、菊太の前にしゃがんでのろのろと動く手・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・つかみ針で、左手の拇指と人さし指のはらでおさえた布の方へ針をぶつけてゆくようなぎごちない手つきで、しかし一針一針と縫ってゆく。はじめ笑って見ていた口元がかすかに震えて来て、ひろ子は深く唇をかんだ。口許を力ませるような表情で、濃い睫毛を伏せ、・・・ 宮本百合子 「風知草」
・・・首相に就任したときの軍装写真で、何となく下げている右手の拇指と人さし指をひとりでに軽く円くよせて、丁度仏さんの右手を下へ垂れたような工合になっていたのが、目にのこっている。あれは、このひとの粗笨でない心の或るリズムを語っているように感じた。・・・ 宮本百合子 「待呆け議会風景」
・・・ 花房は佐藤にガアゼを持って来させて、両手の拇指を厚く巻いて、それを口に挿し入れて、下顎を左右二箇所で押えたと思うと、後部を下へぐっと押し下げた。手を緩めると、顎は見事に嵌まってしまった。 二十の涎繰りは、今まで腮を押えていた手拭で・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・顔形、それは老若の違いこそはあるが、ほとほと前の婦人と瓜二つで……ちと軽卒な判断だが、だからこの二人は多分母子だろう。 二人とも何やら浮かぬ顔色で今までの談話が途切れたような体であッたが、しばらくして老女はきッと思いついた体で傍の匕首を・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・それは、母の実家が代代の勤皇家であるところへ、父が左翼で獄に入ったため、籍もろとも実家の方が栖方母子二人を奪い返してしまったことである。父母の別れていることは絶ちがたい栖方のひそかな悩みであった。しかし、梶はこの栖方の家庭上の悩みには話題を・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫