・・・ 雨は海上はるかに去って、霧のような煙のような水蒸気が弱い日の光に、ぼっと白波をかすませてるのがおもしろい。白波は永久に白波であれど、人世は永久に悲しいことが多い。 予はお光さんと接近していることにすこぶる不安を感じその翌々日の朝こ・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・「誰れだ?」「分らん。」「下士か、将校か?」「ぼっとしとって、それが分らないんだ。」「誰奴かな。」「――中に這入って見てやろう。」「よせ、よせ、……帰ろう。」 松木は、若し将校にでも見つかると困る、――そんな・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・日が暮れて、車室の暗い豆電燈が、ぼっと灯る。私は配給のまずしい弁当をひらいて、ぼそぼそたべる。佃煮わびしく、それでも一粒もあますところ無くたべて、九銭のバットを吸う。夜がふけて、寝なければならぬ。私は、寝る。枕の下に、すさまじい車輪疾駆の叫・・・ 太宰治 「鴎」
・・・ひとがぼっとしているときには、ただ圧倒的に命令するに限るのである。相手は、意のままである。下手に、自然を装い、理窟を言って相手に理解させ安心させようなどと努力すれば、かえっていけない。 上野の山へのぼった。ゆっくりゆっくり石の段々を、の・・・ 太宰治 「座興に非ず」
・・・その日湯河原を発って熱海についたころには、熱海のまちは夕靄につつまれ、家家の灯は、ぼっと、ともって、心もとなく思われた。 宿について、夕食までに散歩しようと、宿の番傘を二つ借りて、海辺に出て見た。雨天のしたの海は、だるそうにうねって、冷・・・ 太宰治 「秋風記」
・・・ お部屋へはいると、ぼっと電燈が、ともっている。しんとしている。お父さんいない。やっぱり、お父さんがいないと、家の中に、どこか大きい空席が、ポカンと残って在るような気がして、身悶えしたくなる。和服に着換え、脱ぎ捨てた下着の薔薇にきれいな・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・ 電燈が、ぼっと、ともっていた。障子が、浅黄色。六時ごろでもあろうか。 私は素早く蒲団をたたみ押入れにつっこんで、部屋のその辺を片づけて、羽織をひっかけ、羽織紐をむすんで、それから、机の傍にちゃんと坐って身構えた。異様な緊張であった・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・そのほかの、あざ笑いの言葉も、このごろは、なくなって、枕もとの電気スタンドぼっと灯って居れば、あれは五時まえ、消えて居れば、しめた五時半、ものも言わず蚊帳を脱けだし、兵古帯ひきずり、一路、お医者へ。お医者。五時半になれば、看護婦ひとり起きて・・・ 太宰治 「創生記」
・・・行きつ、戻りつ、それを、五、六度、繰りかえしているうちに、ぼっという荒い音がして、軒が一時に燃え上る。こんどは、ほんとに燃えるのである。黒い煙と、パチパチという材木の爆ぜる音。ほんものの悪性の焔が、ちろちろ顔を出す。かたまった血のような、色・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・燈をもって、三百いくつの石の段々を、ひい、ふう、みい、と小声でかぞえながら降りていって、谷間の底の野天風呂にたどりつき、提燈を下に置いたら、すぐ傍を滔々と流れている谷川の白いうねりが見えて、古い水車がぼっと鼻のさきに浮んだ。疲れていた。ひっ・・・ 太宰治 「火の鳥」
出典:青空文庫