・・・直ぐお迎いをというので、お前様、旦那に伺うとまあどうだろう。 御遊山を遊ばした時のお伴のなかに、内々清心庵にいらっしゃることを突留めて、知ったものがあって、先にもう旦那様に申しあげて、あら立ててはお家の瑕瑾というので、そっとこれまでにお・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・西の風で稲は東へ向いてるから、西手の方から刈り始める。 おはまは省作と並んで刈りたかったは山々であったけれど、思いやりのない満蔵に妨げられ、仏頂面をして姉と満蔵との間へはいった。おとよさんは絶対に自分の夫と並ぶをきらって、省作と並ぶ。な・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ と、そとを指さしたので、僕もその方に向いた。いちじくの葉かげから見えたのは、しごき一つのだらしない寝巻き姿が、楊枝をくわえて、井戸端からこちらを見て笑っている。「正ちゃん、いいものをあげようか?」「ああ」と立ちあがって、両手を・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・この狂歌が呼び物となって、誰言うとなく淡島屋の団扇で餅を煽ぐと運が向いて来るといい伝えた。昔は大抵な家では自宅へ職人を呼んで餅を搗かしたもんで、就中、下町の町家では暮の餅搗を吉例としたから淡島屋の団扇はなければならぬものとなって、毎年の年の・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ なんのたのしみもない、この川の魚たちは、どんなに上を向いて、水の面に映った花をながめてうれしがったでありましょう。「なんというきれいな花でしょう。水の上の世界にはあんなに美しいものがたくさんあるのだ。こんどの世には、どうかして私た・・・ 小川未明 「赤い魚と子供」
・・・私はどんなところであろうと、氷の山を飛び越して迎いに行きますから……。」と、海豹は、眼に涙をためて言いました。風は行く先を急ぎながらも顧みて、「しかし海豹さん。秋頃、漁船がこのあたりまで見えましたから、その時人間に捕られたなら、もはや帰・・・ 小川未明 「月と海豹」
・・・日光の射すのは往来に向いた格子附の南窓だけで、外の窓はどれも雨戸が釘着けにしてある。畳はどんなか知らぬが、部屋一面に摩切れた縁なしの薄縁を敷いて、ところどころ布片で、破目が綴くってある。そして襤褸夜具と木枕とが上り口の片隅に積重ねてあって、・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ 客引きは振り向いて言った。自転車につけた提灯のあかりがはげしく揺れ、そして急に小さくなってしまった。 暗がりのなかへひとり取り残されて、私はひどく心細くなった。汽車の時間を勘ちがいして、そんな真夜なかに着いたことといい、客引きの腑・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・ただ飛来る弾丸に向い工合、それのみを気にして、さて乗出して弥弾丸の的となったのだ。 それからの此始末。ええええ馬鹿め! 己は馬鹿だったが、此不幸なる埃及の百姓(埃及軍、この百姓になると、これはまた一段と罪が無かろう。鮨でも漬けたように船・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・二人は中央の大テーブルに向い合って椅子に腰かけた。「どうかね、引越しが出来たかね?」「出来ない。家はよう/\見附かったが、今日は越せそうもない。金の都合が出来んもんだから」「そいつあ不可んよ君。……」 横井は彼の訪ねて来た腹・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
出典:青空文庫