・・・ 弟の細君の実家――といっても私の家の分家に当るのだが――お母さん、妹さん、兄さんなど大勢改札口の外で、改った仕度で迎いに出ていてくれた。自動車をやっているので、長兄自身大型の乗合を運転して、昔のままの狭い通りや、空濠の土手の上を通った・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・の方を向いてそう言った。「僕はあのジャッズというやつが大嫌いなんだ。厭だと思い出すととても堪らない」 黙ってウエイトレスは蓄音器をとめた。彼女は断髪をして薄い夏の洋装をしていた。しかしそれには少しもフレッシュなところがなかった。むしろ南・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・差し向いたる梅屋の一棟は、山を後に水を前に、心を籠めたる建てようのいと優なり。ゆくりなく目を注ぎたるかの二階の一間に、辰弥はまたあるものを認めぬ。明け放したる障子に凭りて、こなたを向きて立てる一人の乙女あり。かの唄の主なるべしと辰弥は直ちに・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・裏の畑に向いた六畳の間に、樋口とこの家の主人の後家の四十七八になる人とが、さし向かいで何か話をしているところでした。この後家の事を、私どもはみなおッ母さんとよんでいました。 おッ母さんはすこぶるむずかしい顔をして樋口の顔を見ています、樋・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・は自らの空虚を充すために価値に向かい、これを実現することによって、自らを充実する。これがわれわれの意志行為である。ライプニッツが同一の木の葉は一枚もないといったように、個性的なものはそれぞれ独自なもので、他に類例を許さない。自然科学では法則・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・ 曹長が鉛筆を持って這入って来て、彼と向い合って腰掛に腰かけた。獰猛な伍長よりも若そうな、小供らしい曹長だ。何か訊問するんだな、何をきかれたって、疑わしいことがあるもんか! 彼は心かまえた。曹長は露西亜語は、どれくらい勉強したかと訊ねた・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・スルト中村は背を円くし頭を低くして近々と若崎に向い、声も優しく細くして、「火の芸術、火の芸術と君は云うがネ。何の芸術にだって厄介なところはきっと有る。僕の木彫だって難関は有る。せっかくだんだんと彫上げて行って、も少しで仕上になるという時・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・誰かゞソッと側の方を向いて、鼻をかんだ。ある者は何か云おうとしたが、唇がふるえて云えなかった。皆は一言も云わなかった。――然し皆の胸の中には固い、固い決意が結ばれて行った。 * メリヤス工場では又々首切りがあるらしか・・・ 小林多喜二 「父帰る」
・・・いでと新田足利勧請文を向けるほどに二ツ切りの紙三つに折ることもよく合点しやがて本文通りなまじ同伴あるを邪魔と思うころは紛れもない下心、いらざるところへ勇気が出て敵は川添いの裏二階もう掌のうちと単騎馳せ向いたるがさて行義よくては成りがたいがこ・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・贔屓のお屋敷から迎いを受けても参りません。其の癖随分贅沢を致しますから段々貧に迫りますので、御新造が心配をいたします。なれども当人は平気で、口の内で謡をうたい、或はふいと床から起上って足踏をいたして、ぐるりと廻って、戸棚の前へぴたりと坐った・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
出典:青空文庫