・・・娘は後を向いて見て、それから若者の肩の荷物にまた手をかけた。「私が持とう。もう肩が直ったえ。」 若者はやはり黙ってどしどしと歩き続けた。が、突然、「知れたらまた逃げるだけじゃ。」と呟いた。 五 宿場の場庭・・・ 横光利一 「蠅」
・・・ エルリングは、俯向いたままで長い螺釘を調べるように見ていたが、中音で云った。「冬は中々好うございます。」 己はその顔を見詰めて、首を振った。そして分疏のように、こう云った。「余計な事を聞くようだが、わたしは小説を書くものだから・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・ フィンクは思わず八の字髭をひねって、親切らしい風をして暗い隅の方へ向いた。「奥さん。あなたもやはりあちらへ、ニッツアへ御旅行ですか。」「いいえ。わたくしは国へ帰りますの。」「まだ三月ではありませんか。独逸はまだひどく寒いの・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・どの方角を向いてもそうであった。地上には、葉の上へぬき出た蓮の花のほかに、何も見えなかった。 これは全く予想外の光景であった。私たちは蓮の花の近接した個々の姿から、大量の集団的な姿や、遠景としての姿をまで、一挙にして与えられたのである。・・・ 和辻哲郎 「巨椋池の蓮」
出典:青空文庫