・・・久保田君の主人公は常に道徳的薄明りに住する閭巷無名の男女なり。是等の男女はチエホフの作中にも屡その面を現せども、チエホフの主人公は我等読者を哄笑せしむること少しとなさず。久保田君の主人公はチエホフのそれよりも哀婉なること、なお日本の刻み煙草・・・ 芥川竜之介 「久保田万太郎氏」
・・・これが無名の芸術家が――我々の一人が、その生命を犠牲にして僅に世間から購い得た唯一の報酬だったのである。私は全身に異様な戦慄を感じて、三度この憂鬱な油画を覗いて見た。そこにはうす暗い空と水との間に、濡れた黄土の色をした蘆が、白楊が、無花果が・・・ 芥川竜之介 「沼地」
・・・ お君さんの相手は田中君と云って、無名の――まあ芸術家である。何故かと云うと田中君は、詩も作る、ヴァイオリンも弾く、油絵の具も使う、役者も勤める、歌骨牌も巧い、薩摩琵琶も出来ると云う才人だから、どれが本職でどれが道楽だか、鑑定の出来るも・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・ある者は、無名のはがきをよこして、妻を禽獣に比しました。ある者は、宅の黒塀へ学生以上の手腕を揮って、如何わしい画と文句とを書きました。そうして更に大胆なるある者は、私の庭内へ忍びこんで、妻と私とが夕飯を認めている所を、窺いに参りました。閣下・・・ 芥川竜之介 「二つの手紙」
・・・いずれも皆外国または内国の有名、無名の学者、詩人、議論家、創作家などである。そのいろんな人々が、また、その言うところ、論ずるところの類似点を求めて、僕の交友間のあの人、この人になって行く。僕は久しぶりで広い世間に出たかと思うと、実際は暗闇の・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・今日の百画会は当時の書画会の変形であるが、展覧会がなかった時代には書画会以外に書家や画家が自ら世に紹介する道がなかったから、今日の百画会が無名の小画家の生活手段であると反して、当時の書画会は画を売るよりは名を売るを目的としてしばしば高名な書・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 考えるとコッチはマダ無名の青年で、突然紹介状もなしに訪問したのだから一応用事を尋ねられるのが当然であるのに、さも侮辱されたように感じて向ッ腹を立てた。然るに先方は既に一家を成した大家であるに、ワザワザ遠方を夜更けてから、挨拶に来られた・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・最も驚くべきは『新声』とか何々文壇とかいうような青年寄書雑誌をすらわざわざ購読して、中学を卒業したかそこらの無名の青年の文章まで一々批点を加えたり評語を施こしたりして細さに味わった。丁度植物学者が路傍の雑草にまで興味を持って精しく研究すると・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・政治上の革命がしばしば草沢の無名の英雄に成し遂げられるように、文芸上の革命もまた往々シロウトに烽火を挙げられる。京伝馬琴以後落寞として膏の燼きた燈火のように明滅していた当時の小説界も龍渓鉄腸らのシロウトに新らしい油を注ぎ込まれたが、生残った・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・陸放翁のいったごとく「我死骨即朽、青史亦無名」と嘆じ、この悲嘆の声を発してわれわれが生涯を終るのではないかと思うて失望の極に陥ることがある。しかれども私はそれよりモット大きい、今度は前の三つと違いまして誰にも遺すことのできる最大遺物があると・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
出典:青空文庫