・・・電話を切った新蔵は、いつもの通りその後で、帳場格子の後へ坐りましたが、さあここ二日の間に自分とお敏との運命がきまるのだと思うと、心細いともつかず、もどかしいともつかず、そうかと云って猶更また嬉しいともつかず、ただ妙にわくわくした心もちになっ・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ 草の径ももどかしい。畦ともいわず、刈田と言わず、真直に突切って、颯と寄った。 この勢いに、男は桂谷の山手の方へ、掛稲を縫って、烏とともに飛んで遁げた。「おお。」「あ、あれ、先刻の旦那さん。」 遁げた男は治兵衛坊主で――・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・で三百の帰った後で、彼は早速小包の横を切るのももどかしい思いで、包装を剥ぎ、そしてそろ/\と紙箱の蓋を開けたのだ。……新しいブリキ鑵の快よい光! 山本山と銘打った紅いレッテルの美わしさ! 彼はその刹那に、非常な珍宝にでも接した時のように、軽・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・私の健康も確実に回復するほうに向かって行ったが、いかに言ってもそれが遅緩で、もどかしい思いをさせた。どれほどの用心深さで私はおりおりの暗礁を乗り越えようと努めて来たかしれない。この病弱な私が、ともかくも住居を移そうと思い立つまでにこぎつけた・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・愛しています、というこの言葉は、言葉にすれば、なんとまあ白々しく、きざっぽい、もどかしい言葉なのか、私は、言葉を憎みます。 愛は、愛は、捕縛できない宇宙的な、いいえ先験的なヌウメンです。どんな素晴らしいフェノメンも愛のほんの一部分の註釈・・・ 太宰治 「古典風」
・・・耳がよく聞えないという事が、どんなに淋しい、もどかしいものか、今度という今度は思い知りました。買物などに行って、私の耳の悪い事を知らない人達が、ふつうの人に話すようにものを言うので、私には、何を言っているのか、さっぱりわからなくて、悲しくな・・・ 太宰治 「水仙」
・・・嘉助などはあんまりもどかしいもんですから、空へ向いて「ホッホウ。」と叫んで早く息を吐いてしまおうとしました。すると三郎は大きな声で笑いました。「ずいぶん待ったぞ。それにきょうは雨が降るかもしれないそうだよ。」「そだら早ぐ行ぐべすさ。・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・耕一などはあんまりもどかしいもんですから空へ向いて、「ホッホウ。」と叫んで早く息を吐いてしまおうとしました。するとその子が口を曲げて一寸笑いました。 一郎がまだはあはあ云いながら、切れ切れに叫びました。「汝ぁ誰だ。何だ汝ぁ。」・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・ところが、そういう事情で、こちらに期待する感情が自然な要求として強ければ強いだけ、時代ばなれのしたラジオの乱脈はもどかしい。しかも、こちらは、愚劣な雑音の氾濫を頭から浴びせられているばかりで、それを調整するために自分の手を出すことはもちろん・・・ 宮本百合子 「芸術が必要とする科学」
出典:青空文庫