・・・けれども末弟は、大まじめである。家庭内のどんなささやかな紛争にでも、必ず末弟は、ぬっと顔を出し、たのまれもせぬのに思案深げに審判を下して、これには、母をはじめ一家中、閉口している。いきおい末弟は、一家中から敬遠の形である。末弟には、それが不・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・口早に言って花束を手渡してやっても、あの子はぼんやりしていますので、私は、矢庭にあの子をぶん殴りたく思いました。私まで、すっかり元気がなくなり、それから、ぶらぶら兄の家へ行ってみましたら、兄は、もうベッドにもぐっていて、なんだか、ひどく不機・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・ その時、矢庭に夫は、下駄を突っかけて外に飛び出ようとしました。「おっと、そいつあいけない」 男のひとは、その夫の片腕をとらえ、二人は瞬時もみ合いました。「放せ! 刺すぞ」 夫の右手にジャックナイフが光っていました。その・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・その有様を見ているうちに、私は、突然、強力な嗚咽が喉につき上げて来るのを覚えた。矢庭にあの人を抱きしめ、共に泣きたく思いました。おう可哀想に、あなたを罪してなるものか。あなたは、いつでも優しかった。あなたは、いつでも正しかった。あなたは、い・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・本当に、仕事の邪魔どころか、私は目がくらんで矢庭に倒立ちでもしたい気持でした。私はあの日、もう東京へ帰ろうかと思っていたのです。一週間も滞在して、いちまいも書けず、宿賃が一泊五円として、もうそろそろ五十円では支払いが心細くなっていますし、き・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・そうして後で、私を馬鹿先生ではないかと疑い、灯が見えるかねと言い居ったぞ等と、私の口真似して笑い合っているのに違いないと思ったら、私は矢庭に袴を脱ぎ捨て海に投じたくなった。けれども、また、ふと、いやそんな事は無い。地図で見ても、新潟の近くに・・・ 太宰治 「佐渡」
・・・ひどいねえ。矢庭にこの写真を、破って棄てたい発作にとらわれるのだが、でも、それは卑怯だ。私の過去には、こんな姿も、たしかにあったのだ。鏡花の悪影響かも知れない。笑って下さい。逃げもかくれもせずに、罰を受けます。いさぎよく御高覧に供する次第だ・・・ 太宰治 「小さいアルバム」
・・・あ、ちょっと、と言って、私は飛鳥の如く奥の部屋に引返し、ぎょろりと凄くあたりを見廻し、矢庭にお膳の寒雀二羽を掴んでふところにねじ込み、それからゆっくり玄関へ出て行って、「わすれもの。」と嗄れた声で嘘を言った。 お篠はお高祖頭巾をかぶ・・・ 太宰治 「チャンス」
・・・いまはもう、胸がどきどきして顔が赤らむどころか、あんまり苦しくて顔が蒼くなり額に油汗のにじみ出るような気持で、花江さんの取り澄まして差出す証紙を貼った汚い十円紙幣を一枚二枚と数えながら、矢庭に全部ひき裂いてしまいたい発作に襲われた事が何度あ・・・ 太宰治 「トカトントン」
・・・ 誰が!」矢庭に勝治は、われがねの如き大声を発した。「ちくしょう!」どんと床を蹴って、「節子だな? 裏切りやがって、ちくしょうめ!」 恥ずかしさが極点に達すると勝治はいつも狂ったみたいに怒るのである。怒られる相手は、きまって節子だ。風の・・・ 太宰治 「花火」
出典:青空文庫