・・・ 主人は打水を了えて後満足げに庭の面を見わたしたが、やがて足を洗って下駄をはくかとおもうとすぐに下女を呼んで、手拭、石鹸、湯銭等を取り来らしめて湯へいってしまった。返って来ればチャンと膳立てが出来ているというのが、毎日毎日版に摺ったよう・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・暁に間のある俊雄はうるさいと家を駈け出し当分冬吉のもとへ御免候え会社へも欠勤がちなり 絵にかける女を見ていたずらに心を動かすがごとしという遍昭が歌の生れ変り肱を落書きの墨の痕淋漓たる十露盤に突いて湯銭を貸本にかすり春水翁を地下に瞑せしむ・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・ごはんをたべるぶんには、いま手許にお金が無くても、それは米屋、酒屋と話合った上で、どうにかやりくりして、そんなに困ることもあるまいけれど、煙草、郵便代、諸雑費、それに、湯銭、これらに、はたと当惑するのだ。私は、まだこの土地には、なじみが薄い・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・尤も同時に若干の湯銭を獲得したことも事実ではあるが。 九 今朝五時頃に眼が覚めて床の上でうとうとしているとき妙なことを思い出した。子供の時分に姉の家に庫次という眇目の年取った下男が居た。それがある時台所で出入・・・ 寺田寅彦 「KからQまで」
・・・夏は納涼、秋は菊見遊山をかねる出養生、客あし繁き宿ながら、時しも十月中旬の事とて、団子坂の造菊も、まだ開園にはならざる程ゆゑ、この温泉も静にして浴場は例の如く込合へども皆湯銭並の客人のみ、座敷に通るは最稀なり。五六人の女婢手を束ねて、ぼんや・・・ 永井荷風 「上野」
・・・女の電車賃、女の湯銭は日本のどこにもきめられてないのに、とるものだけにはそんなにくっきり女の賃銀とやすくきめられて在るというのは何と不思議だろう。 外で十分働いても女は家庭へかえれば男のしらない雑用があって、疲労が激しいということは周知・・・ 宮本百合子 「働く婦人」
出典:青空文庫