一 じゅりあの・吉助は、肥前国彼杵郡浦上村の産であった。早く父母に別れたので、幼少の時から、土地の乙名三郎治と云うものの下男になった。が、性来愚鈍な彼は、始終朋輩の弄り物にされて、牛馬同様な賤役に服さ・・・ 芥川竜之介 「じゅりあの・吉助」
・・・自分の眼から見れば、今の修理も、破魔弓こそ持たないものの、幼少の修理と変りがない。自分が絵解きをした絵本、自分が手をとって習わせた難波津の歌、それから、自分が尾をつけた紙鳶――そう云う物も、まざまざと、自分の記憶に残っている。…… そう・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・なに、あなた一晩先に帰っていませば一晩だけよけい仕事ができるというものでございますから……私は御覧のとおりの青造ではございますが、幼少から商売のほうではずいぶんたたきつけられたもんで……しかし今夜ほどあらぬお疑いを被って男を下げたことは前後・・・ 有島武郎 「親子」
・・・……手前、幼少の頃など、学校を怠けて、船で淡島へ渡って、鳥居前、あの頂辺で弁当を食べるなぞはお茶の子だったものですが、さて、この三津、重寺、口野一帯と来ますと、行軍の扮装でもむずかしい冒険だとしたものでしてな。――沖からこの辺の浦を一目に眺・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・籍にありしかば、一週日以前既に一度聯隊に入営せしが、その月その日の翌日は、旅団戦地に発するとて、親戚父兄の心を察し、一日の出営を許されたるにぞ、渠は父母無き孤児の、他に繋累とてはあらざれども、児として幼少より養育されて、母とも思う叔母に会し・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・お通の心は世に亡き母の今もその身とともに在して、幼少のみぎりにおけるが如くその心願を母に請えば、必ず肯かるべしと信ずるなり。 さりながらいかにせむ、お通は遂に乞食僧の犠牲にならざるべからざる由老媼の口より宣告されぬ。 前日、黒壁に賁・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・人間は誰とて無事をこいねがうの念の無いものは無い筈であるが、身に多くの係累者を持った者、殊に手足まといの幼少者などある身には、更に痛切に無事を願うの念が強いのである。 一朝禍を蹈むの場合にあたって、係累の多い者ほど、惨害はその惨の甚しい・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・ そのころ、西国より京・江戸へ上るには、大阪の八軒屋から淀川を上って伏見へ着き、そこから京へはいるという道が普通で、下りも同様、自然伏見は京大阪を結ぶ要衝として奉行所のほかに藩屋敷が置かれ、荷船問屋の繁昌はもちろん、船宿も川の東西に数十・・・ 織田作之助 「螢」
・・・「予はかつしろしめされて候がごとく、幼少の時より学文に心をかけし上、大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て、日本第一の智者となし給へ。十二の歳より此の願を立つ」 日蓮の出家求道の発足は認識への要求であった。彼の胸中にわだかまる疑問を解くにた・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・しかし観行院様はまた洒落たところのあった方で、其当時私に太閤が幼少の時、仏像を愚弄した話などを仕てお聞かせなさった事もありました。然し後年、左様私が二十一歳の時、旅から帰って見たら、足掛三年ばかりの不在中に一家悉く一時耶蘇教になったものです・・・ 幸田露伴 「少年時代」
出典:青空文庫