・・・ 犬塚は楊枝を使いながら木村に、「まあ、少しゆっくりし給え」と云った。 起ち掛かっていた木村は、また腰を据えて、茶碗に茶を一杯注いだ。 二人と一しょに居残った山田は、頻りに知識欲に責められるという様子で、こんな問を出した。「・・・ 森鴎外 「食堂」
・・・ 石田は先ず楊枝を使う。漱をする。湯で顔を洗う。石鹸は七十銭位の舶来品を使っている。何故そんな贅沢をするかと人が問うと、石鹸は石鹸でなくてはいけない、贋物を使う位なら使わないと云っている。五分刈頭を洗う。それから裸になって体じゅうを丁寧・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・正当に死ねるはずの時が来て死んだものには、そんな権利は無い、もう用事が無いはずだからな。自殺したものとなるととかく何かしら忘れて来るものだ。そのために娑婆のものが迷惑するかも知れない。どうだな。」役人はこわい目をしてツァウォツキイを見た。自・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・ 秋三はお霜の来た用事を悟ると痛快な気持が胸に拡った。彼はにやにやしながら云った。「にじりつけるか。勘が引受けよったのやないか。勘に訊いてみい、勘に。」「連れて来んもの、誰が引受けるぞ。」「そりゃお前、お前とこが株内やで俺が・・・ 横光利一 「南北」
・・・物見高い都会のことであるから、いそがしい用事を控えた人までが何事かと好奇心を起こしてのぞきにくる。老人は怒りの情にまかせて過激な言を発せぬとも限らぬ。例えば中岡良一を賞讃して、彼はまことに国士であった、志士であった、というようなことを言い出・・・ 和辻哲郎 「蝸牛の角」
出典:青空文庫