・・・ 雑役が用事の最後に、ニヤ/\笑いながら云った。「お前さん今度が初めてだね。これで一通りの道具はちゃアんと揃ってるもんだろう。これからこの室が長い間のお前さんのアパアトになるわけさ。だから、自分でキチン/\と綺麗にしておいた方がいゝ・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・冬吉が金輪奈落の底尽きぬ腹立ちただいまと小露が座敷戻りの挨拶も長坂橋の張飛睨んだばかりの勢いに小露は顫え上りそれから明けても三国割拠お互いに気まずく笑い声はお隣のおばさんにも下し賜わらず長火鉢の前の噛楊子ちょっと聞けば悪くないらしけれど気が・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・片隅へ身を寄せて、上り框のところへ手をつき乍ら、何か低い声で物を言出した時は、自分は直にその男の用事を看て取った。聞いて見ると越後の方から出て来たもので、都にある親戚をたよりに尋ねて行くという。はるばるの長旅、ここまでは辿り着いたが、途中で・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・しかしてヒヤシンスのように青いこの子の目で見やられると、母の美しい顔は、子どもと同じな心置きのない無邪気さに返って、まるで太陽の下に置かれた幼児のように見えました。「ここで私は天国の事などは歌うまい。しかしできるなら何かこの二人の役にた・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・佐吉さんは、超然として、べつにお祭の晴着を着るわけでなし、ふだん着のままで、店の用事をして居ましたが、やがて、来る若者、来る若者、すべて派手な大浪模様のお揃いの浴衣を着て、腰に団扇を差し、やはり揃いの手拭いを首に巻きつけ、やあ、おめでとうご・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・そのかわり、バナナを一日に二十本ずつ、妻楊枝、日に三十本は確実、尖端をしゅろの葉のごとくちぢに噛みくだいて、所かまわず吐きちらしてあるいて居られる由、また、さしたる用事もなきに、床より抜け出て、うろついてあるいて、電燈の笠に頭をぶっつけ、三・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・「あなたのその幼時のデモクラシイは、その後、どんな形で発展しましたか。」 私は間の抜けた顔で答える。「さあ、どうなりましたか、わかりません。」 × 私の生れた家には、誇るべき系図も何も無い。どこからか流れて来・・・ 太宰治 「苦悩の年鑑」
・・・午後十時十分発の奥羽線まわり青森行きに乗ろうとしたが、折あしく改札直前に警報が出て構内は一瞬のうちに真暗になり、もう列も順番もあったものでなく、異様な大叫喚と共に群集が改札口に殺到し、私たちはそれぞれ幼児をひとりずつ抱えているのでたちまち負・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・自分の幼時からの悪を、飾らずに書いて置きたいと思ったのである。二十四歳の秋の事である。草蓬々の広い廃園を眺めながら、私は離れの一室に坐って、めっきり笑を失っていた。私は、再び死ぬつもりでいた。きざと言えば、きざである。いい気なものであった。・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・私は、堪えがたい思いであった。また、この母は、なんと佳いのだ。私は、幼時、金太郎よりも、金太郎とふたりで山にかくれて住んでいる若く美しい、あの山姥のほうに、心をひかれた。また、馬に乗ったジャンダアクを忘れかねた。青春のころのナイチンゲールの・・・ 太宰治 「俗天使」
出典:青空文庫