・・・軍医と何か打合せをしていた伍長が、扉のすきから獰猛な顔を出して、兵舎の彼に呼びかけた。「君は本当に偽物だとは知らずに使ったんかね?」「そうです。」彼は答えた。「うそを云っちゃいかんぞ!」「うそじゃありません。」「どこへも・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・会社に関係のある予備陸軍大佐の娘を妻に貰った。 為吉とおしかは、もうじいさん、ばあさんと呼ばれていいように年が寄っていた。野良仕事にも、夜なべにも昔日のように精が出なくなった。 債鬼のために、先祖伝来の田地を取られた時にも、おしかは・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・「君のところへ呼びに行きはしなかったかネ。もしそうだったら勘弁してくれたまえ。」「ム。ハハハ。ナニ、ちょうど、話しに来ようと思っていたのサ。」 主客の間にこんな挨拶が交されたが、客は大きな茶碗の番茶をいかにもゆっくりと飲乾す、そ・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・口俊雄はこのごろ喫み覚えた煙草の煙に紛らかしにっこりと受けたまま返辞なければ往復端書も駄目のことと同伴の男はもどかしがりさてこの土地の奇麗のと言えば、あるある島田には間があれど小春は尤物介添えは大吉婆呼びにやれと命ずるをまだ来ぬ先から俊雄は・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・お大名から呼びに来ても往きません。贔屓のお屋敷から迎いを受けても参りません。其の癖随分贅沢を致しますから段々貧に迫りますので、御新造が心配をいたします。なれども当人は平気で、口の内で謡をうたい、或はふいと床から起上って足踏をいたして、ぐるり・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・東京の叔父さん達とも相談した上で、お前を呼び寄せるで。よしか。お母さんの側が一番よからず」 とおげんが言ったが、娘の方では答えなかった。お新の心は母親の言うことよりも、煙草の方にあるらしかった。 お新は母親のためにも煙草を吸いつけて・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・と、その牛も呼びました。それから羊も山羊も馬も豚も、すっかりあつまって来ました。そしてみんなで列をつくって、女のあとについて、どんどん湖水の中へかえってしまいました。 ギンは気狂のようになって、あとを追っかけていきましたが、もう・・・ 鈴木三重吉 「湖水の女」
・・・弟妹たちを呼び集めて、そのところを指摘し、大声叱咤、説明に努力したが、徒労であった。弟妹たちは、どうだか、と首をかしげて、にやにや笑っているだけで、一向に興奮の色を示さぬ。いったいに、弟妹たちは、この兄を甘く見ている。なめている風がある。長・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・帽子をあみだにかぶっていた。予備兵の演習召集か何かで訓練を受けていたのであろう。中畑さんが兵隊だったとは、実に意外で、私は、しどろもどろになった。中畑さんは、平気でにこにこ笑い、ちょっと列から離れかけたので私は、いよいよ狼狽して、顔が耳元ま・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・同文の予備役、なお、こちらに三冊ございます。その三冊とも、五十円は、安い。太宰さん。おどろいたでしょう? みんなウソ。おどかしてみたのさ。おどろいた? ずっとまえに、君が私とお酒のみながら、この話、教えて呉れたじゃないか。きょう、日曜の雨、・・・ 太宰治 「虚構の春」
出典:青空文庫