・・・ 八 鏡の中の俳優I氏 某百貨店の理髪部へはいって、立ち並ぶ鏡の前の回転椅子に収まった。鏡に写った自分のすぐ隣の椅子に、半白で痩躯の老人が収まっている。よく見ると、歌舞伎俳優で有名なIR氏である。鏡の中のI氏は、実物・・・ 寺田寅彦 「試験管」
・・・ 無数の葉の一つ一つがきわめて迅速に相次いで切断されるために生ずる特殊な音はいろいろの事を思い出させた。理髪師の鋏が濃密な髪の一束一束を切って行く音にいつも一種の快感を味わっていた私は、今自分で理髪師の立場からまた少しちがった感覚を味わ・・・ 寺田寅彦 「芝刈り」
・・・ 食堂や写真部はもちろん、理髪店、ツーリスト・ビュロー、何でもある。近頃郵便局の出来たところもある。職業紹介所と結婚媒介所はいまだないようであるが、そのうちに出来てもよさそうなものである。今でも見合いのランデヴーには毎日のように利用され・・・ 寺田寅彦 「夏」
・・・よく見る町の理髪師が水鉢に金魚を飼ったり、提燈屋が箱庭をつくって店先へ飾ったりするような趣味を、この爺さんも持っていたらしい。爺さんはその言葉遣いや様子合から下町に生れ育ったことを知らしていた。それにしても、わたくしは一度もこの爺さんの笑っ・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・ 大通の街路の方には、硝子窓のある洋風の家が多かった。理髪店の軒先には、紅白の丸い棒が突き出してあり、ペンキの看板に Barbershop と書いてあった。旅館もあるし、洗濯屋もあった。町の四辻に写真屋があり、その気象台のような硝子の家・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・すぐ上の壁に大きながくがかかって、そこにそのうちの四人の名前が理髪アーティストとして立派にならび、二人は助手として書かれていました。「お髪はこの通りの型でよろしゅうございますか。」私が鏡の前の白いきれをかけた上等の椅子に坐ったとき、その・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・更に料理人、理髪師、土工等あらゆる階級の人々にとっての文学表現の形式となり得ている、その様式の浸透を、窪田氏は超階級性と見ておられるのであるが、直ちに、作歌上からむずかしさのために過去の歌でさけられて来ている職業を取材したものの多いのは、現・・・ 宮本百合子 「今日の文学の展望」
・・・今日でも、モスクワ市トゥウェルフスカヤ街に店舗を張っている理髪師は、巴里風と称するロシア式剪髪によって、盛に客の衿頸に毛を入れている。妻に送ったチェホフ書簡集の訳者はおかっぱだ。彼女は時々理髪店へ行かなければならない。帰ると、ホテルの部屋で・・・ 宮本百合子 「シナーニ書店のベンチ」
・・・ただ、どれが新しいとも分らない同じような破屋がその辺一帯に建てこみ、一軒の理髪店が、赤と藍との塗り分け棒を軒先に突き出している。当時の記憶は、なほ子にとって快いものではなかった。然し、そう数年のうちに全然忘れ切れる種類のものでもなかった。そ・・・ 宮本百合子 「白い蚊帳」
・・・一冊の雑誌、一冊の本、風呂屋、理髪店での世間話さえ、それが戦争についての批評めいたものだと密告され、捕縛され、投獄された。私たちは、今もなお悪夢のような印象で一つのポスターを思い出す。省線各駅、町会の告知板に、徳川時代の、十手をもった捕りか・・・ 宮本百合子 「世界の寡婦」
出典:青空文庫