・・・彼はわなわな震える手に、戸のノッブを探り当てた。が、戸に錠の下りている事は、すぐにそのノッブが教えてくれた。 すると今度は櫛かピンかが、突然ばたりと落ちる音が聞えた。しかしそれを拾い上げる音は、いくら耳を澄ましていても、なぜか陳には聞え・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・その後で新蔵とお敏とは、まるで悪い夢からでも醒めたように、うっとり色を失った顔を見合せましたが、たちまち互の眼の中に恐しい覚悟の色を読み合うと、我知らずしっかり手をとり交して、わなわな身ぶるいしたと云う事です。 それから三十分ばかり経っ・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・両手をわなわなふるわせて、肩で息を切りながら、眼を、眼球がの外へ出そうになるほど、見開いて、唖のように執拗く黙っている。これを見ると、下人は始めて明白にこの老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されていると云う事を意識した。そうしてこの意識は・・・ 芥川竜之介 「羅生門」
・・・ 我に返って、良人の姿を一目見た時、ひしと取縋って、わなわなと震えたが、余り力強く抱いたせいか、お浜は冷くなっていた。 こんな心弱いものに留守をさせて、良人が漁る海の幸よ。 その夜はやがて、砂白く、崖蒼き、玲瓏たる江見の月に、奴・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ とわなわなと身震いする。濡れた肩を絞って、雫の垂るのが、蓴菜に似た血のかたまりの、いまも流るるようである。 尖った嘴は、疣立って、なお蒼い。「いたましげなや――何としてなあ。対手はどこの何ものじゃの。」「畜生!人間。」・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ 親仁は流に攫われまいと、両手で、その死体の半はいまだ水に漂っているのをしっかり押えながら、わなわなと震えて早口に経を唱えた。 けれどもこれは恐れたのでも驚いたのでもなかったのである。助かるすべもありそうな、見た処の一枝の花を、いざ・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ああ、吹込むしぶきに、肩も踵も、わなわな震えている。…… 雨はかぶりましたし、裸のご新姐の身の上を思って……」「まぶたを溢れて、鼻柱をつたう大粒の涙が、唇へ甘く濡れました。甘い涙。――いささか気障ですが、うれしい悲しいを通り越し・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・ 父は立ちながら背を擦って、わなわな震えた。 雨の音が颯と高い。「おお、冷え、本降、本降。」 と高調子で門を入ったのが、此処に差向ったこの、平吉の平さんであった。 傘をがさりと掛けて、提灯をふっと消す、と蝋燭の匂が立って・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・お米はそのまんま、手が震えて、足がふらついて、わなわなして、急に熱でも出たように、部屋へ下って臥りましたそうな。お昼過からは早や、お邸中寄ると触ると、ひそひそ話。 高い声では謂われぬことだが、お金子の行先はちゃんと分った。しかし手証を見・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・余り嬉しさに、わなわな震えて、野暮なお酌をすると口惜い。稽古をするわ、私。……ちょっとその小さな掛花活を取って頂戴。」「何にする。」「お銚子を持つ稽古するの。」「狂人染みた、何だな、お前。」「よう、後生だから、一度だって私の・・・ 泉鏡花 「第二菎蒻本」
出典:青空文庫