・・・――間違わないように。さようなら。」 受話器を置いた陳彩は、まるで放心したように、しばらくは黙然と坐っていた。が、やがて置き時計の針を見ると、半ば機械的にベルの鈕を押した。 書記の今西はその響に応じて、心もち明けた戸の後から、痩せた・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・ ことのここに及べるまで、医学士の挙動脱兎のごとく神速にしていささか間なく、伯爵夫人の胸を割くや、一同はもとよりかの医博士に到るまで、言を挟むべき寸隙とてもなかりしなるが、ここにおいてか、わななくあり、面を蔽うあり、背向になるあり、ある・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・いたずらものの野鼠は真二つになって落ち、ぬたくる蛇は寸断になって蠢くほどで、虫、獣も、今は恐れて、床、天井を損わない。 人間なりとて、心柄によっては無事では済まない。かねて禁断であるものを、色に盲いて血気な徒が、分別を取はずし、夜中、御・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・余り嬉しさに、わなわな震えて、野暮なお酌をすると口惜い。稽古をするわ、私。……ちょっとその小さな掛花活を取って頂戴。」「何にする。」「お銚子を持つ稽古するの。」「狂人染みた、何だな、お前。」「よう、後生だから、一度だって私の・・・ 泉鏡花 「第二菎蒻本」
・・・はて、いいわな。おめえ稼業にも似合わねえ。ばかめ、こんな爺さんを掴めえて、剣突もすさまじいや、なんだと思っていやがんでえ、こう指一本でも指してみろ、今じゃおいらが後見だ」 憤慨と、軽侮と、怨恨とを満たしたる、視線の赴くところ、麹町一番町・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・そして大きな石をあげて見る、――いやはや悪魔共が居るわ/\、塊り合ってわな/\ぶる/\慄えている。それをまた婆さんが引掴んで行って、一層ひどくコキ使う。それでもどうしても云うことを聴かない奴は、懲 これがKの、西蔵のお伽噺――恐らくはK・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ハイカラ振ったり、たまに洋服をきて街を歩いたりしているが、そんなことはどう見たって性に合わない。都会人のまねはやめろ! なんと云っても、根が無口な百姓だ。百姓のずるさも持って居る。百姓の素朴さも持って居る。百姓らしくまぬけでもある。その・・・ 黒島伝治 「自画像」
・・・これには従わなければいけない。けれども常識は、十年ごとに飛躍する。私は、人の世の諸現象の把握については、ヘエゲル先生を支持する。 ほんとうは、マルクス、エンゲルス両先生を、と言いたいところでもあろうが、いやいや、レニン先生を、と言いたい・・・ 太宰治 「創作余談」
・・・なんにも言わなけあよかった。 お前が言わなくたって、どこからともなくおれの耳にはいって来る。 もったいぶらなくたって、わかっているわよ。お母さんでしょう?(軽く狼狽いや。そうよ、それにきまっているわ。お母さんはまた、どうして・・・ 太宰治 「冬の花火」
・・・出歩く道がわかればわなを掛けるといいそうであるがその道がなかなかわからないと言う。それはとにかく、こんなはげ山の頂にうさぎが何を求めて歩いているのか、また蜘蛛や甲虫や蝶などといかなる「社会」を作っているのか愚かな人間には想像がつかないのであ・・・ 寺田寅彦 「小浅間」
出典:青空文庫