・・・彼はちょっとためらった後、隣り合った鳥類の標本室へはいった。カナリヤ、錦鶏鳥、蜂雀、――美しい大小の剥製の鳥は硝子越しに彼を眺めている。三重子もこう言う鳥のように形骸だけを残したまま、魂の美しさを失ってしまった。彼ははっきり覚えている。三重・・・ 芥川竜之介 「早春」
・・・――彼は自家でカナリヤを飼っていたことがある。 美しい午前の日光が葉をこぼれている。笹鳴きは口の音に迷わされてはいるが、そんな場合のカナリヤなどのように、機微な感情は現わさなかった。食欲に肥えふとって、なにか堅いチョッキでも着たような恰・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・母屋の縁先で何匹かのカナリヤがやっきに囀り合っている。庭いっぱいの黄色い日向は彼らが吐きだしているのかと思われる。「ちょっといらっしてごらんなさいな。小さな鮒かしらたくさんいますわ」と、藤さんは眩しそうにこちらを見る。「だって下駄が・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ないものでもない、心もとなき杖をたよりに、一人二役の掛け合いまんざい、孤立の身の上なれども仲間大勢のふりして、且うたい、且かたり、むずかしき一篇のロマンスの周囲を、およそ百日のあいだ、ぬき足、さし足、カナリヤねらう黒き瞳濡れたる小猫の様にて・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・三十四歳で死したるかれには、大作家五十歳六十歳のあの傍若無人のマンネリズムの堆積が、無かったので、人は、かれの、ユーゴー、バルザックにも劣らぬ巨匠たる貫禄を見失い、或る勇猛果敢の日本の男は、かれをカナリヤとさえ呼んでいた。 淀野隆三訳、・・・ 太宰治 「碧眼托鉢」
・・・お嫂さんは私と違って身だしなみがよくてお上品なので、これまではそれこそ「カナリヤのお食事」みたいに軽く召上って、そうして間食なんて一度もなさった事は無いのに、このごろはおなかが空いて、恥ずかしいとおっしゃって、それからふっと妙なものを食べた・・・ 太宰治 「雪の夜の話」
数年前に「ボーヤ」と名づけた白毛の雄猫が病死してから以来しばらくわが家の縁側に猫というものの姿を見ない月日が流れた。先年、犬養内閣が成立したとおなじ日に一羽のローラーカナリヤが迷い込んで来たのを捕えて飼っているうち、ある朝・・・ 寺田寅彦 「ある探偵事件」
・・・生魚はすぐ隣に魚河岸があるからいいが、しかし三越でも猫や小猿やカナリヤを販売したらおもしろいかもしれない。少なくも子供たちに対する誘惑を無害な方面に転じる事になるだろうし、おとなに対しても三越というものの観念に一つの新しい道徳的な隈取りを与・・・ 寺田寅彦 「丸善と三越」
・・・両人がここに引き越したのは千八百三十四年の六月十日で、引越の途中に下女の持っていたカナリヤが籠の中で囀ったという事まで知れている。夫人がこの家を撰んだのは大に気に入ったものかほかに相当なのがなくてやむをえなんだのか、いずれにもせよこの煙突の・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・一年間のこの鳥籠の歴史はほぼこういう風の盛衰であったが、その後別に飼うて居った三、四羽のカナリヤをこの籠の中へ入れたので、忽ち病室の外が賑うて来た。大抵な鳥はこの追いこみ籠に入れると、今までよく鳴いて居たものも全く鳴かなくなるのが普通である・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
出典:青空文庫