・・・ と祖母も莞爾して、嫁の記念を取返す、二度目の外出はいそいそするのに、手を曳かれて、キチンと小口を揃えて置いた、あと三冊の兄弟を、父の膝許に残しながら、出しなに、台所を竊と覗くと、灯は棕櫚の葉風に自から消えたと覚しく……真の暗がりに、も・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ところが或る朝、突然刺を通じたので会って見ると、斜子の黒の紋付きに白ッぽい一楽のゾロリとした背の高いスッキリした下町の若檀那風の男で、想像したほど忌味がなかった。キチンと四角に坐ったまま少しも膝をくずさないで、少し反身に煙草を燻かしながらニ・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・その他周囲の物すべてが皆なその処を得て、キチンとしている。 室の下等にして黒く暗憺なるを憂うるなかれ、桂正作はその主義と、その性情によって、すべてこれらの黒くして暗憺たるものをば化して純潔にして高貴、感嘆すべく畏敬すべきものとなしている・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・文人は文人で自己流の文章を尺度にしてキチンと文体を定めたがッたり、実に馬鹿馬鹿しい想像をもッているのが多いから情ないのサ。親父は親父の了簡で家をキチンと治めたがり、息子は息子の了簡で世を渡りたがるのだからね。自己が大能力があッたら乱雑の世界・・・ 幸田露伴 「ねじくり博士」
・・・だから、自分でキチン/\と綺麗にしておいた方がいゝよ。そしたら却々愛着が出るもんだ。」 それから、看守の方をチラッと見て、「ヘン、しゃれたもんだ、この不景気にアパアト住いだなんて!」 と云って、出て行った。 長い・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・何時もズロースなんかはいたことがないのに、押入れの奥まったところから、それも二枚取り出してきて、キチンと重ねてはいた。それから財布のなかを調べて懐に入れ、チリ紙とタオルを枕もとに置いた。そういう動作をしているお前の妹の顔は、お前が笑うような・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・その時、龍介はフト上りはなに新しい爪皮のかかった男の足駄がキチンと置かれていたのを見た。瞬間龍介はハッとした。とんでもないものを見たような気がした。そこから帰りながら変に物足らない気持を感じた。そして何かしら淋しかった。 しばらくして龍・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・と名づける袋があってその内側にキチン質でできた歯のようなものが数列縦に並んでいる。この「歯」で食物をつッつきまぜ返して消化液をほどよく混淆させるのだそうである。ここにも造化の妙機がある。またある虫ではこれに似たもので濾過器の役目をすることも・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・ ある学者の説によると、動物界が進化の途中で二派に分かれ、一方は外皮にかたいキチン質を備えた昆虫になり、その最も進歩したものが蜂や蟻である。また他の分派は中心にかたい背骨ができて、そのいちばん発展したのが人間だという事である。私にはこの・・・ 寺田寅彦 「簔虫と蜘蛛」
・・・ 中学へは家から通っていたが、その間、家事を手伝って時間の束縛を受けたようなこともなく、といって学校から帰ると、その日の学課の復習や、あすの下しらべなどを、キチンと時間を定めて、一定の範囲内に一定の勉強を続けたのでもなく、その日、その時・・・ 寺田寅彦 「わが中学時代の勉強法」
出典:青空文庫