・・・その顔を一つ撲ってから、軽部は、「女いうもんはな、結婚まえには神聖な体でおらんといかんのやぞ。キッスだけのことでも……」 言いかけて、お君を犯したことをふと想いだし、何か矛盾めくことを言うようだったから、簡単な訓戒に止めることにした・・・ 織田作之助 「雨」
・・・ 母親の抱擁、頬ずり、キッス、頭髪の愛撫、まれには軽ろい打擲さえも、母性愛を現実化する表現として、いつまでも保存さるべきものである。おしっこの世話、おしめの始末、夜泣きの世話、すべて直接に子どもの肉体的、生理的な方面に関係のあるケヤーは・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・女皇たちは皆にこにこして道の両側にキッスを投げかけている。ワアワアと見物人がはやす。日光が強いので暑そうに顔をしかめているのもある。いろいろの商業団体の旗も来る。それから古代の騎士の風をした行列が続く。絵画、音楽、詩などを代表した花車も来る・・・ 寺田寅彦 「先生への通信」
・・・とまるで、恋人の腕にキッスでもするように、屍の腕へ口を持って行った。 彼は、うまそうにそれを食い始めた。 もし安岡が立っているか、うずくまっているかしたら彼は倒れたに違いなかった。が、幸いにして彼は腹這っていたから、それ以上に倒れる・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・そしてとりたての林檎のように張り切った小さな頬に、ハムマーのようにキッスを立て続けにぶっつけた。 M署の高等係中村は、もう、蚊帳の外に腰を下して、扇子をバタバタ初めていた。「今時分、何の用事だい? 泥棒じゃあるめえし、夜中に踏み込ま・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・シグナレスは小さな唇で、いまにもその火にキッスしたそうに空を見あげていました。「あすこには青い霧の火が燃えているんでしょうね。その青い霧の火の中へ僕たちいっしょにすわりたいですねえ」「ええ」「けれどあすこには汽車はないんですねえ・・・ 宮沢賢治 「シグナルとシグナレス」
・・・第一の精霊 キッスをして御やりなされ額の上に――精女私はお主さまに朝と夕に御手にするほかいやでございます。第二の精霊 お主さまに――。ほんに体を捧げて御ざるワ。第三の精霊 有がとう、美くしいシリンクス、何とか云うて下され・・・ 宮本百合子 「葦笛(一幕)」
・・・d so I decided to stay in too ! My dearest “Chame”, I don't deserve your love: I don't deserve your kiss, and I don't de・・・ 宮本百合子 「「黄銅時代」創作メモ」
旅人はまだ迷って居ます。暗い森から暗い森の中へと、雪は一寸もやまず木々の梢と落葉のつもった地面とをせっせとお化粧をして居ます。まだ十六にみたない若い旅人は母の最後にくれたキッスと村はずれまで送って呉れた小さい小鳥のように美・・・ 宮本百合子 「無題(一)」
・・・「パンをかじりながらキッスをしなくっちゃあならない世の中なんさ」 女は暗の中にうごめいて居る見えない不安や不平にこう云いやって、手をおよぐ様にふっていきなりかけ出した。走りながら「どうせ……どうせ……」と女は思ってパッと見ひらいた目・・・ 宮本百合子 「芽生」
出典:青空文庫