・・・低味の畦道に敷ならべたスリッパ材はぶかぶかと水のために浮き上って、その間から真菰が長く延びて出た。蝌斗が畑の中を泳ぎ廻ったりした。郭公が森の中で淋しく啼いた。小豆を板の上に遠くでころがすような雨の音が朝から晩まで聞えて、それが小休むと湿気を・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・壁も柱もまだ新しく、隙間とてもないのに、薄い霧のようなものが、すっと這入っては、そッと爪尖を嘗めるので、変にスリッパが辷りそうで、足許が覚束ない。 渠は壁に掴った。 掌がその壁の面に触れると、遠くで湯の雫の音がした。 聞き澄すと・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・治療してもらっているのはどこかの奥さんらしくアッパッパを着て、スリッパをはいた両足をきちんと揃えて、仰向いています。何か日々の営みのなつかしさを想わせるような風情でした。私はふと濡れるような旅情を感ずると、にわかに生への執着が甦ってきました・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・暗い敷台の上には老師の帰りを待っているかのように革のスリッパが内へ向けて揃えられてあり、下駄箱の上には下駄が載って、白い籐のステッキなども見えたが、私の二度三度の強い咳払いにも、さらに内からは反響がなかった。お留守なのかしら?……そうも思っ・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・私は岩風呂へ降りて行って、そこからスリッパのままで釜が淵のほうへぶらぶら何気なさそうに歩いて行きました。女の尻を追い廻す、という最下等のいやな言葉が思い浮びましたが、私の場合は、それとちがうのだというような気もして、そんなに天の呵責も感じま・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・ 越後獅子も、スリッパの破れを縫いながら、にやりと笑う。「いったいこの自由思想というものは、」と固パンはいよいよまじめに、「その本来の姿は、反抗精神です。破壊思想といっていいかも知れない。圧制や束縛が取りのぞかれたところにはじめて芽・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・師範の寄宿舎で焚火をして叱られた時の事が、ふいと思い出されて、顔をしかめてスリッパをはいて、背戸の井戸端に出た。だるい。頭が重い。私は首筋を平手で叩いてみた。屋外は、凄いどしゃ降りだ。菅笠をかぶって洗面器をとりに風呂場へ行った。「先生お・・・ 太宰治 「新郎」
・・・と、その女中は、なぜか笑いながら答え、私にスリッパをそろえてくれた。 金屏風立てて在る奥の二階の部屋に案内された。割烹店は、お寺のように、シンとしていた。滝の音ばかり、いやに大きく響いていた。「ごはんを食べるのだ。」私は座蒲団に大き・・・ 太宰治 「デカダン抗議」
・・・舎監としてもかなりきびしいほうであったらしい。スリッパをはいて見回る、その足音を生徒がけむったがってスリッパというあだ名をつけていたそうである。生徒はまた亮に「たつのおとし子」というあだ名をつけていると自分で話していた。これは彼の顔つきやや・・・ 寺田寅彦 「亮の追憶」
・・・深谷が寝台から下りてスリッパを履いて、便所に行くらしく出て行った。 安岡の眼は冴えた。彼は、何を自分の顔の辺りに感じたかを考え始めた。 ――人の息だった。体温だった。だが、この部屋には深谷と自分とだけしかいない。深谷がおれの寝息をう・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
出典:青空文庫