・・・ 遠くで、内井戸の水の音が水底へ響いてポタン、と鳴る。不思議に風が留んで寂寞した。 見上げた破風口は峠ほど高し、とぼんと野原へ出たような気がして、縁に添いつつ中土間を、囲炉裡の前を向うへ通ると、桃桜溌と輝くばかり、五壇一面の緋毛氈、・・・ 泉鏡花 「雛がたり」
・・・「こんなスカタンな、滅茶苦茶な戦争されて、一時間のちの命もわからんようなことにされながら、いくら兵隊さんにでも、へいと言って出せるもんですか」 そう言われると、二人は、「自分たちもそう思います」 と、うっかりそう答えてしまい・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・そこでも今年は、去年のように、金色夜叉やロクタン池の首なし事件の覗きからくりや、ろくろ首、人魚、海女の水中冒険などの見世物小屋が掛っているはずだ。 寿子はそう思って、北向き八幡宮の前まで来ると、境内の方へ外れようとしたが、庄之助はだまっ・・・ 織田作之助 「道なき道」
・・・渋紙で作った塵取。タン壺。雑巾。 蓋付きの茶碗二個。皿一枚。ワッパ一箇。箸一ぜん。――それだけ入っている食器箱。フキン一枚。土瓶。湯呑茶碗一個。 黒い漆塗の便器。洗面器。清水桶。排水桶。ヒシャク一個。 縁のない畳一枚。玩具のよう・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・しかしそれでは肝心の事故の第一原因はわからないのでいろいろ調べているうちに、片方の補助翼を操縦する鋼索の張力を加減するためにつけてあるタンバックルと称するネジがある、それがもどるのを防ぐために通してある銅線が一か所切れてネジが抜けていること・・・ 寺田寅彦 「災難雑考」
・・・カルメンの完全なる演出は仏蘭西人を俟たねばならぬが如く、トリスタンは独逸人でなければならぬであろう。わたくしは曾て米国に在った時米国の俳優の演ずるモリエールの戯曲を聴くことを好まなかった。それと同じ理由から、わたくしは日本語に翻訳せられた西・・・ 永井荷風 「帝国劇場のオペラ」
○一つ橋外の学校の寄宿舎に居る時に、明日は三角術の試験だというので、ノートを広げてサイン、アルファ、タン、スィータスィータと読んで居るけれど少しも分らぬ。困って居ると友達が酒飲みに行かんかというから、直に一処に飛び出した。いつも行く神保・・・ 正岡子規 「酒」
・・・その時はもう博士の顔は消えて窓はガタンとしまりました。 そこでネネムは自分の室に帰って白いちぢれ毛のかつらを除りました。それから寝ました。 あとはあしたのことです。 三、ペンネンネンネンネン・ネネムの巡視 ばけも・・・ 宮沢賢治 「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」
・・・はコンスタン・ベネット、シモーヌ・シモン、ロレッタ・ヤング、ジャネット・ゲイナーという四女優を集めてこれらの女優の特色で興味をひこうとしたものであったろうが、案外に深みも味も、特長さえ大して活かされていなかった。 日本の映画では、以上の・・・ 宮本百合子 「映画の恋愛」
・・・十分か十五分、級の違う他の子供と一緒に傍のトタン塀によりかかったり、門の中を覗いたり、地面に踞んだりして、小使が出て来るのを待っている。外から小使部屋が見えたように思う。その時分、小使は、特に朝、権威をもって楽しそうに見えた。三四人、彼方此・・・ 宮本百合子 「思い出すかずかず」
出典:青空文庫