・・・ あれはトタンというものだ」 僕はこういう問答のため、妙に悄気たことを覚えている。その先輩は中学を出たのち、たちまち肺を犯されて故人になったとかいうことだった。 二六 いじめっ子 幼稚園にはいっていた僕はほとんど・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・午後はトタン屋根に日が当るものですから、その烈しい火照りだけでもとうてい本などは読めません。では何をするかと言えば、K君やS君に来て貰ってトランプや将棊に閑をつぶしたり、組み立て細工の木枕をして昼寝をしたりするだけです。五六日前の午後のこと・・・ 芥川竜之介 「手紙」
・・・ 隔の襖は裏表、両方の肩で圧されて、すらすらと三寸ばかり、暗き柳と、曇れる花、淋しく顔を見合せた、トタンに跫音、続いて跫音、夫人は衝と退いて小さな咳。 さそくに後を犇と閉め、立花は掌に据えて、瞳を寄せると、軽く捻った懐紙、二隅へはた・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ 足が浮いて、ちらちらと高く上ったのは――白い蝶が、トタンにその塗下駄の底を潜って舞上ったので。――見ると、姫はその蝶に軽く乗ったように宙を下り立った。「お床几、お床几。」 と翁が呼ぶと、栗鼠よ、栗鼠よ、古栗鼠の小栗鼠が、樹の根・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・その瞬時真白なる細き面影を一見して、思わず悚然としたまわんか。トタンに件の幽霊は行燈の火を吹消して、暗中を走る跫音、遠く、遠く、遠くなりつつ、長き廊下の尽頭に至りて、そのままハタと留むべきなり。 夜はいよいよ更けて、風寒きに、怪者の再来・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・ とがたりと大戸引開けたる、トタンに犬あり、颯と退きつ。 懸寄るお通を伝内は身をもて謙三郎にへだてつつ、謙三郎のよろめきながら内に入らんとあせるを遮り、「うんや、そう」 というよりはやく、弾装したる猟銃を、戦きながら差向けつ・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・ 今日は方々にお賽銭が多い。道中の心得に、新しく調えた懐中に半紙があった。 目の露したたり、口許も綻びそうな、写真を取って、思わず、四辺を見て半紙に包もうとした。 トタンに人気勢がした。 樹島はバッとあかくなった。 猛然・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・「名古屋の客が起上りしな、手を伸ばして、盆ごと取って、枕頭へ宙を引くトタンに塗盆を辷ったんです。まるで、黒雲の中から白い猪が火を噴いて飛蒐る勢で、お藻代さんの、恍惚したその寝顔へ、蓋も飛んで、仰向けに、熱湯が、血ですか、蒼い鬼火でしょう・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・やがて天満から馬場の方へそれて、日本橋の通りを阿倍野まで行き、それから阪和電車の線路伝いに美章園という駅の近くのガード下まで来ると、そこにトタンとむしろで囲ったまるでルンペン小屋のようなものがありました。男はその中へもぐりました。そこがその・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ ある朝トタン屋根に足跡が印されてあった。 行一も水道や瓦斯のない不便さに身重の妻を痛ましく思っていた矢先で、市内に家を捜し始めた。「大家さんが交番へ行ってくださったら、俺の管轄内に事故のあったことがないって。いつでもそんなこと・・・ 梶井基次郎 「雪後」
出典:青空文庫