・・・ この店は卓も腰掛けも、ニスを塗らない白木だった。おまけに店を囲う物は、江戸伝来の葭簀だった。だから洋食は食っていても、ほとんど洋食屋とは思われなかった。風中は誂えたビフテキが来ると、これは切り味じゃないかと云ったりした。如丹はナイフの・・・ 芥川竜之介 「魚河岸」
・・・自分はいつもこの静かな船の帆と、青く平らに流れる潮のにおいとに対して、なんということもなく、ホフマンスタアルのエアレエプニスという詩をよんだ時のような、言いようのないさびしさを感ずるとともに、自分の心の中にもまた、情緒の水のささやきが、靄の・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・その寂寞を破るものは、ニスのにおいのする戸の向うから、時々ここへ聞えて来る、かすかなタイプライタアの音だけであった。 書類が一山片づいた後、陳はふと何か思い出したように、卓上電話の受話器を耳へ当てた。「私の家へかけてくれ給え。」・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・それからその机の側にある、とうにニスの剥げた茶箪笥の上には、頸の細い硝子の花立てがあって、花びらの一つとれた造花の百合が、手際よくその中にさしてある。察する所この百合は、花びらさえまだ無事でいたら、今でもあのカッフェの卓子に飾られていたのに・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・伏見人形風の彩色の上からニスを塗ったのが如何にも生々しくて、椿岳の作としては余り感服出来ないものである。が、椿岳の奇名が鳴っていたから、椿岳の作といえば何でも風流がってこの人形もまた相応に評判されたもんだ。今でも時偶は残っていて、先年の椿岳・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・店へはいると一面に吊した絵のニスの香に酔うてしまう。あれも好い。これも気に入った。鍛冶屋の煙突から吹き出る真赤な焔が黒い樹に映えて遠い森の上に青い月が出ている絵も欲しかったが、何となく静かなこの「森の絵」にきめた。粗末な額縁をはめてもらって・・・ 寺田寅彦 「森の絵」
・・・この妾宅には珍々先生一流の趣味によって、食事の折には一切、新時代の料理屋または小待合の座敷を聯想させるような、上等ならば紫檀、安ものならばニス塗の食卓を用いる事を許さないので、長火鉢の向うへ持出されるのは、古びて剥げてはいれど、やや大形の猫・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・各其ノ為人ニ従ツテ為ス所ヲ異ニス。婢ノ楼ニ在ツテ客ヲ邀フルヤ各十人ヲ以テ一隊ヲ作リ、一客来レバ隊中当番ノ一婢出デヽ之ニ接ス。女隊ニ三アリ。一ヲ紅隊ト云ヒ、二ヲ緑隊、三ヲ紫隊ト云フ。各隊ノ女子ハ個々七宝焼ノ徽章ヲ胸間ニ懸ケ以テ所属ノ隊ト番号ト・・・ 永井荷風 「申訳」
出典:青空文庫