・・・たとえば家庭に於いても女房が小説を読み、亭主が仕事に出掛ける前に鏡に向ってネクタイを結びながら、この頃どんな小説が面白いんだいと聞き、女房答えて、ヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る」が面白かったわ。亭主、チョッキのボタンをはめながら、どん・・・ 太宰治 「小説の面白さ」
・・・どだい、その、赤いネクタイが気に食わん。」 しかし、柳田は平然と微笑し、「ネクタイは、すぐに取りかえます。僕も、これは、あまり結構ではないと思っていたんです。」「そう、結構でない。そう知りながら、どうして伊藤に忠告しなかったんだ・・・ 太宰治 「女類」
・・・黒の蝶ネクタイを固くきちんと結んだままで、女給たちにはついに一指も触れなかった。理智で切りきざんだ工合いの芸でなければ面白くないのです。文学のほうではアンドレ・ジッドとトオマス・マンが好きです、と言ってから淋しそうに右手の親指の爪を噛んだ。・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・いちど、N氏の出版記念会の時、その時には、私には着ている丹前の他には、一枚の着物も無かったので、友人のY君から洋服、シャツ、ネクタイ、靴、靴下など全部を借りて身体に纏い、卑屈に笑いながら出席したのであるが、この時も、まことに評判が悪く、洋服・・・ 太宰治 「服装に就いて」
・・・コーヒー茶わんとか灰皿とかのこわれた代わりを買いに行っても、近ごろのものには、大概たまらなくいやだと思うような全く無益な装飾がしてあってどうにも買う気になれないのである。ネクタイがあまり古ぼけたので一つ奮発しようと思って物色しても、あのたく・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・ 食堂やあるいは電車の中などで、隣席の人のもっているステッキの種類特にその頭部の装飾を見ると、それに現われたその持ち主の趣味がたいていネクタイとか腕時計とか他の持ち物に反映しているように思われる。しかし神の取り合わせた顔と腕にはそうした・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・それでもネクタイはやっとできあがったそうでした。 ゆうべはジルヴェスターアーベンドというので、またバウムに蝋燭をともしました。そして食後にあたたかいプンシュを飲んで、お菓子をかじりました。食堂の棚に飾ってある葡萄が毎日少しずつなくなるの・・・ 寺田寅彦 「先生への通信」
・・・「書物は精神の外套であり、ネクタイでありブラシであり歯みがきではないか、ある人には猿股でありステッキではないか。」こう言われてみればそうであるが、自分はただなんとなくここをのぞく気にならないでいつでもすぐに正面の階段を登って行く、そして二階・・・ 寺田寅彦 「丸善と三越」
・・・セーヌ河畔の釣り人や、古本店、リュクサンブールの人形芝居、美術学生のネクタイ、蛙の料理にもどこかに俳諧のひとしずくはある。この俳諧がこの国の基礎科学にドイツ人の及ばない独自な光彩を与え、この国の芸術に特有な新鮮味を添えているのではないかとも・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
・・・その人は白いだぶだぶの麻服を着て黒いてかてかしたはんけちをネクタイの代わりに首に巻いて、手には白い扇をもって軽くじぶんの顔を扇ぎながら少し笑ってみんなを見おろしていたのです。さあみんなはだんだんしいんとなって、まるで堅くなってしまいました。・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
出典:青空文庫