・・・それは日のよくあたる風の吹く、ほどよい湿度と温度が幸いする日、杉林が一斉に飛ばす花粉の煙であった。しかし今すでに受精を終わった杉林の上には褐色がかった落ちつきができていた。瓦斯体のような若芽に煙っていた欅や楢の緑にももう初夏らしい落ちつきが・・・ 梶井基次郎 「蒼穹」
・・・ さあその条規も格別に、これとむつかしいことはなく、ただその閣令を出す必要は、その法令を規定したすべての条件を具えたものには、早速払い下げを許可するが、そうでないものをば一斉に書面を却下することとし、また相当の条件を具えた書面が幾通もあ・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・ それから牧師の祈りと、熱心な説教、そしてすべてが終わって、堂の内の人々一斉の黙祷、この時のしばしの間のシンとした光景――私はまるで別の世界を見せられた気がしたのであります。 帰りは風雪になっていました。二人は毛布の中で抱き合わんば・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・ 自分の入って来たのを見て、いきなり一人の水兵が水雷長万歳と叫ぶと、そこらにいた者一斉に立って自分を取り巻き、かの大杯を指しつけた。自分はその一二を受けながら、シナの水兵は今時分定めて旅順や威海衛で大へこみにへこんでいるだろう、一つ彼奴・・・ 国木田独歩 「遺言」
・・・と顔を伏せ、呻くような、歔欷なさるような苦しげの声で言い出したので、弟子たちすべて、のけぞらんばかりに驚き、一斉に席を蹴って立ち、あの人のまわりに集っておのおの、主よ、私のことですか、主よ、それは私のことですかと、罵り騒ぎ、あの人は死ぬる人・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・おおぜいのひとたちは祖母のまわりに駈せ集い、一斉に鈴虫みたいな細い声を出して泣きはじめた。私は祖母とならんで寝ころがりながら、死人の顔をだまって見ていた。ろうたけた祖母の白い顔の、額の両端から小さい波がちりちりと起り、顔一めんにその皮膚の波・・・ 太宰治 「玩具」
・・・ 烏瓜の花が大方開き切ってしまう頃になると、どこからともなく、ほとんど一斉に沢山の蛾が飛んで来てこの花をせせって歩く。無線電話で召集でもされたかと思うように一時にあちらからもこちらからも飛んで来るのである。これもおそらく蛾が一種の光度計・・・ 寺田寅彦 「烏瓜の花と蛾」
・・・突然向うの家の板塀へ何か打っつけた音がしたと思うと一斉に駆け出してそれきり何処かへ行ってしまった。凧のうなりがブンブンと聞えている。熱は追々高くなるらしい。口が乾いて舌が上顎に貼り付く。少し眠りたいと思うて寝返りをすると、額の氷袋の氷がカチ・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・を束ねて、ぼんやり客俟の誰彼時、たちまちガラ/\ツとひきこみしは、たしかに二人乗の人力車、根津の廓からの流丸ならずば権君御持参の高帽子、と女中はてん/″\に浮立つゝ、貯蓄のイラツシヤイを惜気もなく異韻一斉さらけだして、急ぎいでむかへて二度吃・・・ 永井荷風 「上野」
・・・その跫音がその姿と共に、橋の影を浮べた水の面をかすかに渡って来るかと思うと忽ち遠くの工場から一斉に夕方の汽笛が鳴り出す……。わたくしは何となくシャルパンチエーの好んで作曲するオペラでもきくような心持になることができた。 セメントの大通は・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
出典:青空文庫