・・・ 遠藤は妙子の手紙を見てから、一時は往来に立ったなり、夜明けを待とうかとも思いました。が、お嬢さんの身の上を思うと、どうしてもじっとしてはいられません。そこでとうとう盗人のように、そっと家の中へ忍びこむと、早速この二階の戸口へ来て、さっ・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・父は黙ってまじまじと癇癪玉を一時に敲きつけたような言葉を聞いていたが、父にしては存外穏やかななだめるような調子になっていた。「なにも俺しはそれほどあなたに信用を置かんというのではないのですが、事務はどこまでも事務なのだから明らかにしてお・・・ 有島武郎 「親子」
・・・べつの見方をすれば、両者の経済的状態の一時的共通に起因しているのである。そうしてさらに詳しくいえば、純粋自然主義はじつに反省の形において他の一方から分化したものであったのである。 かくてこの結合の結果は我々の今日まで見てきたごとくである・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・ 弥生の末から、ちっとずつの遅速はあっても、花は一時に咲くので、その一ならびの塀の内に、桃、紅梅、椿も桜も、あるいは満開に、あるいは初々しい花に、色香を装っている。石垣の草には、蕗の薹も萌えていよう。特に桃の花を真先に挙げたのは、むかし・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・ 君が歌を作り文を作るのは、君自身でもいうとおり、作らねばならない必要があって作るのではなく、いわば一種のもの好き一時の慰みであるのだ。君はもとより君の境遇からそれで結構である。いやしくも文芸にたずさわる以上、だれでもぜひ一所懸命になっ・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・弾丸の雨にさらされとる気違いは、たとえ一時の状態とは云うても、そうは行かん。」「それで、君の負傷するまでには、たびたび戦ったのか、ね?」「いや、僕の隊は最初の戦争に全滅してしもたんや。――さて、これからが話の本文に這入るのやて――」・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・軽焼屋の袋は一時好事家間に珍がられて俄に市価を生じたが、就中 喜兵衛の商才は淡島屋の名を広めるに少しも油断がなかった。その頃は神仏参詣が唯一の遊山であって、流行の神仏は参詣人が群集したもんだ。今と違って遊山半分でもマジメな信心気も相応に・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ちょうど真夜中の一時から、二時ごろにかけてでありました。夜の中でも、いちばんしんとした、寒い刻限でありました。「いまごろは、だれも、この寒さに、起きているものはなかろう。木立も、眠っていれば、山にすんでいる獣は、穴にはいって眠っているで・・・ 小川未明 「ある夜の星たちの話」
・・・「お前さん、それじゃ私を一時の慰物にしといて、棄てるんだね。」と女房はついに泣声を立てて詰寄せた。「慰物にしたんかしねえんか、そんなことあ考えてもみねえから自分でも分らねえ、どうともお前の方で好なように取りねえ、昨日は昨日、今日は今・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ 喫茶店や料理店の軽薄なハイカラさとちがうこのようなしみじみとした、落着いた、ややこしい情緒をみると、私は現代の目まぐるしい猥雑さに魂の拠り所を失ったこれ等の若いインテリ達が、たとえ一時的にしろ、ここを魂の安息所として何もかも忘れて、舌・・・ 織田作之助 「大阪発見」
出典:青空文庫