・・・ 指を一本出して、「――この通りだ」 手を合わせた。「だめ、だめ! 一滴でもアルコールがはいったら最後、あなたはへべれけになるまで承知しないんだから折角ひっくくって来たんだから、こっちはあくまで強気で行くよ。その代り、原稿が出来・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・たしなむべき女たちでさえ音をたてて一滴も残さず飲み乾している、それを、おそらく宵から雪に吹かれて立ち詰めだった坂田が未練もみせずに飲み残すのはどうしたことか、珈琲というものは、二口、三口啜ってあと残すものだという、誰かにきいた田舎者じみた野・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・残少なの水も一滴残さず飲干して了った。渇いて渇いて耐えられぬので、一滴甞める積で、おもわずガブリと皆飲んだのだ。嗚呼彼の騎兵がツイ側を通る時、何故おれは声を立てて呼ばなかったろう? よし彼が敵であったにしろ、まだ其方が勝であったものを。なん・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・私の今日の惨めな生活、瘠我慢、生の執着――それが彼の一滴の涙によって、たとえ一瞬間であろうと、私の存在が根柢から覆えされる絶望と自棄を感じないわけに行かなかった。この哀れな父を許せ! 父の生活を理解してくれ――いつの場合でも私はしまいにはこ・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・夕闇の風、軽ろく雨を吹けば一滴二滴、面を払うを三人は心地よげに受けてよもやまの話に入りぬ。 その後教師都に帰りてより幾年の月日経ち、ある冬の夜、夜更けて一時を過ぎしに独り小机に向かい手紙認めぬ。そは故郷なる旧友の許へと書き送るなり。その・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・その軽き一滴二滴に打たれて梢より落つる木の葉の風なきにひるがえるさまを青年は心ありげにながめたり。時雨の通りこせし後は林の中しばし明るくなりしが間もなくまた元の夕闇ほの暗きありさまとなり、遠方にて銃の音かすかに聞こえぬ。青年は身を起こしてし・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・あたしたちの乳房からはもう、一滴の乳も出ないんだよ。からの乳房をピチャピチャ吸って、いや、もうこのごろは吸う力さえないんだ。ああ、そうだよ、狐の子だよ。あごがとがって、皺だらけの顔で一日中ヒイヒイ泣いているんだ。見せてあげましょうかね。それ・・・ 太宰治 「貨幣」
・・・私は泥にうつぶして、いまこそおいおい声をたてて泣こう泣こうとあせったけれど、あわれ、一滴の涙も出なかった。 くろんぼ くろんぼは檻の中にはいっていた。檻の中は一坪ほどのひろさであって、まっくらい奥隅に、丸太でつくられ・・・ 太宰治 「逆行」
・・・ささやかな思い出に一滴の涙が眼がしらに浮ぶときにも、彼はここぞと鏡の前に飛んでゆき、自らの悲歎に暮れたる侘しき姿を、ほれぼれと眺めた。取るに足らぬ女性の嫉妬から、些かの掠り傷を受けても、彼は怨みの刃を受けたように得意になり、たかだか二万法の・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・こんなところで天幕生活をしたらさぞ愉快であろうといったら、運転手が、しかし水が一滴もありませんという。金のある人は、寝台や台所のついたカミオンに乗って出掛けたらいいだろうと思われるが、まだ日本にはそういう流行はないようである。 鬼押出熔・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
出典:青空文庫