・・・これはズッと昔の事、尤もな、昔の事と思われるのは是ばかりでない、おれが一生の事、足を撃れて此処に倒れる迄の事は何も彼もズッと昔の事のように思われるのだが……或日町を通ると、人だかりがある。思わずも足を駐めて視ると、何か哀れな悲鳴を揚げている・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・しかしこうした場合だから迷わんで断行した方がいいと私はしいて気を張っていたが、さすがにFと別れるのがもの悲しく、これがついに一生の別れででもあるかのような頼りない気さえした。Fの方は昨晩からずいぶん悄げていたが、行李もできて別れの晩飯にかか・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・だから吉田の頭には地震とか火事とか一生に一度遭うか二度遭うかというようなものまでが真剣に写っているのだった。また吉田がこの状態を続けてゆくというのには絶えない努力感の緊張が必要であって、もしその綱渡りのような努力になにか不安の影が射せばたち・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・書記官と聞きたる綱雄は、浮世の波に漂わさるるこのあわれなる奴と見下し、去年哲学の業を卒えたる学士と聞きたる辰弥は、迂遠極まる空理の中に一生を葬る馬鹿者かとひそかに冷笑う。善平はさらに罪もなげに、定めてともに尊敬し合いたることと、独りほくほく・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・そして心ひそかに歓んだ、その理由は、かれ初めより無事に日を送ることをよろこばなかった、のみならずついに何事をもなさず何をしでかすることなく一生空しく他の厄介で終わるということは彼にとって多少の苦痛であった。 希望なき安心の遅鈍なる生活も・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・その青春時代学芸と教養とに発足する時期において、倫理的要求が旺盛であるか否かということはその人の一生の人格の質と品等とを決定する重大な契機である。倫理的なるものに反抗し、否定するアンチモラールはまだいい。それはなお倫理的関心の領域にいるから・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・ 親爺は、十三歳の時から一人前に働いて、一生を働き通して来た。学問もなければ、頭もない。が、それでも、百姓の生活が現在のまゝではどうしても楽にならないことを知っている。経験から知っているのだろう。自作農は、直接地主から搾取されることはな・・・ 黒島伝治 「小豆島」
・・・一時間が何千円に当った訳だ、なぞと譏る者があるが、それは譏る方がケチな根性で、一生理屈地獄でノタウチ廻るよりほかの能のない、理屈をぬけた楽しい天地のあることを知らぬからの論だ。趣味の前には百万両だって煙草の煙よりも果敢いものにしか思えぬこと・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・窪田さんや条理の分った山崎のお母さんたちが、一生ケン命に、だまされるどころか、丁度その反対で、上田や大川たちの搾取の生活を解放するために、伊藤や山崎などが先頭に立って、一身を犠牲にしてやっているのだと云ってきかせても、一向にきゝ入れないのだ・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・「人の一生というものは、君、どうなるか解らない。」と自分は男の顔を熟視り乍ら言った。「これから将来、君がどんな出世をするかも知れない。僕がまた今日の君のように困らないとも限らない。まあ、君、左様じゃないか。もし君が壮大な邸宅でも構えると・・・ 島崎藤村 「朝飯」
出典:青空文庫