・・・ まことは、両側にまだ家のありました頃は、――中に旅籠も交っています――一面識はなくっても、同じ汽車に乗った人たちが、疎にも、それぞれの二階に籠っているらしい、それこそ親友が附添っているように、気丈夫に頼母しかったのであります。もっとも・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・故人となってしまった人というならまだしも、七十五歳の高齢とはいえ今なお安らかな余生を送っている人を、その人と一面識もない私が六年前の古い新聞の観戦記事の切り抜きをたよりに何の断りなしに勝手な想像を加えて書いたというだけでも失礼であろう。しか・・・ 織田作之助 「勝負師」
・・・そしてわずか一と月ほどの間に、あの療養地のN海岸で偶然にも、K君と相識ったというような、一面識もない私にお手紙をくださるようになったのだと思います。私はあなたのお手紙ではじめてK君の彼地での溺死を知ったのです。私はたいそうおどろきました。と・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
・・・見廻すとその中の五人は兼て一面識位はある人であるが、一人、色の白い中肉の品の可い紳士は未だ見識らぬ人である。竹内はそれと気がつき、「ウン貴様は未だこの方を御存知ないだろう、紹介しましょう、この方は上村君と言って北海道炭鉱会社の社員の方で・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・ほんの通りがかりの者ですけれども、お内があんまり面白そうなので、つい立ち寄らせていただきました、それでは、お邪魔させていただきます、などと言い、一面識もないあかの他人が、のこのこ部屋へはいり込んで来ることさえあった。そんな場合、さあ、さあ、・・・ 太宰治 「花燭」
・・・噂に依れば、このごろ又々、借銭の悪癖萌え出で、一面識なき名士などにまで、借銭の御申込、しかも犬の如き哀訴歎願、おまけに断絶を食い、てんとして恥じず、借銭どこが悪い、お約束の如くに他日返却すれば、向うさまへも、ごめいわくは無し、こちらも一命た・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・「謹啓。一面識ナキ小生ヨリノ失礼ナル手紙御読了被下度候。小生、日本人ノウチデ、宗教家トシテハ内村鑑三氏、芸術家トシテハ岡倉天心氏、教育家トシテハ井上哲次郎氏、以上三氏ノ他ノ文章ハ、文章ニ似テ文章ニアラザルモノトシテ、モッパラ洋書ニ親シミ・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・自信が無いとは言っても、それはまた別な尺度から言っている事で、何もこんな一面識も無い年少の者から、これ程までにみそくそに言われる覚えは無いのである。 私は立って着物の裾の塵をぱっぱっと払い、それから、ぐいと顎をしゃくって、「おい、君・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・春陽堂と改造社との両書肆が相競って全集一円本刊行の広告を出す頃になると、そういう一面識もない人で僕と共に盃を挙げようというものがいよいよ増加した。初めに給仕を介したり或は名刺を差付けたりする者はまだしも穏な方であった。遂には突然僕の面前に坐・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・を草しつつあった際、一面識もない人が時々書信又は絵端書抔をわざわざ寄せて意外の褒辞を賜わった事がある。自分が書いたものが斯んな見ず知らずの人から同情を受けて居ると云う事を発見するのは非常に難有い。今出版の機を利用して是等の諸君に向って一言感・・・ 夏目漱石 「『吾輩は猫である』上篇自序」
出典:青空文庫