・・・鮮やかな緋の色が、三味線の皮にも、ひく人の手にも、七宝に花菱の紋が抉ってある、華奢な桐の見台にも、あたたかく反射しているのである。その床の間の両側へみな、向いあって、すわっていた。上座は師匠の紫暁で、次が中洲の大将、それから小川の旦那と順を・・・ 芥川竜之介 「老年」
・・・堪らず袖を巻いて唇を蔽いながら、勢い釵とともに、やや白やかな手の伸びるのが、雪白なる鵞鳥の七宝の瓔珞を掛けた風情なのを、無性髯で、チュッパと啜込むように、坊主は犬蹲になって、頤でうけて、どろりと嘗め込む。 と、紫玉の手には、ずぶずぶと響・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・銀の地に青や赤の七宝がおいてあり、美しい枯れた音がした。人びとのなかでは聞こえなくなり、夜更けの道で鳴り出すそれは、彼の心の象徴のように思えた。 ここでも町は、窓辺から見る風景のように、歩いている彼に展けてゆくのであった。 生まれて・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・るいは闊くなりあるいは狭くなり、あるいは上りあるいは下り、極めて深き底知れぬ谷などのあるのみならず、岩のさま角だたず滑らかにして、すべて物の自然溶け去りし後の如くなれば、人の造りしものともおもわれず、七宝所成にして金胎両部の蓮華蔵海なりなど・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・古めかしい油絵の額や、カメオや七宝の装飾品などが目についた。双眼鏡の四十シリングというのをT氏が十シリングにつけたら負けてよこした。……五時出帆。少し波が出て船が揺れた。 九 ゲノアからミラノ五月三日 朝モン・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
出典:青空文庫