・・・しかしその時刻にはもうあの恐ろしい前代未聞の火事の渦巻が下町一帯に広がりつつあった。そうして生きながら焼かれる人々の叫喚の声が念仏や題目の声に和してこの世の地獄を現わしつつある間に、山の手ではからすうりの花が薄暮の垣根に咲きそろっていつもの・・・ 寺田寅彦 「からすうりの花と蛾」
・・・ 東京下町の溝の中には川のながれと同じように、長く都人に記憶されていた名高いものも少くはなかった。菊屋橋のかけられた新堀の流れ。三枚橋のかけられていた御徒町の忍川の如き溝渠である。 そのころ人の家をたずね歩むに当って、番地よりも橋の・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・ 逢うごとにいつもその悠然たる貴族的態度の美と洗錬された江戸風の性行とが、そぞろに蔵前の旦那衆を想像せしむる我が敬愛する下町の俳人某子の邸宅は、団十郎の旧宅とその広大なる庭園を隣り合せにしている。高い土塀と深い植込とに電車の響も自ずと遠・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・母親は日頃娘がひいきになるその返礼という心持ばかりでなく、むかしからの習慣で、お祭の景気とその喜びとを他所から来る人にも頒ちたいというような下町気質を見せたのであろう。日頃何につけても、時代と人情との変遷について感動しやすいわたくしには、母・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・その代り下町へは滅多に出ない。一週に一二度出るばかりだ。出るとなると厄介だ。まず「ケニントン」と云う処まで十五分ばかり徒行いて、それから地下電気でもって「テームス」川の底を通って、それから汽車を乗換えて、いわゆる「ウエスト・エンド」辺に行く・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・と、私に質問を繰返した。下町の生活に馴れて汽車に乗るだけさえ一事件であるのだろうと同情していた私は、少し癇癪を起した。 婆さんは、それを働かして少しは自分で自分の行く先に注意を払うだけの脳味噌も持ち合わせていないのであろうか。彼女の・・・ 宮本百合子 「一隅」
・・・私は、下町の心に自然な暢やかさがない者達が、いじらしい程怜悧な犬をつかまえて、ちんちんしろだの、おあずけだの、おまわりだのさせて居るのを見ると、まるで心持がわるい。主人と犬との間にひとりでに生じる感情の疎通で、いつとなく互に要求が解るだけで・・・ 宮本百合子 「犬のはじまり」
・・・きょうは、夕飯を林町でたべて夜下町へ用事で出かけます。街燈のない広い大通りは宵のうちから淋しいものね もうきょうは十一日。何という日の経つことは速いのでしょう。きのうは雨のふる中を田圃道をこいで歩いてすっかりくたびれてしまいました。・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・蔀君は下町の若旦那の中で、最も聡明な一人であったと云って好かろう。 この蔀君が僕の内へ来たのは、川開きの前日の午過ぎであった。あすの川開きに、両国を跡に見て、川上へ上って、寺島で百物語の催しをしようと云うのだが、行って見ぬかと云う。主人・・・ 森鴎外 「百物語」
・・・男の贔屓は下町にある。代を譲った倅が店を三越まがいにするのに不平である老舗の隠居もあれば、横町の師匠の所へ友達が清元の稽古に往くのを憤慨している若い衆もある。それ等の人々は脂粉の気が立ち籠めている桟敷の間にはさまって、秋水の出演を待つのだそ・・・ 森鴎外 「余興」
出典:青空文庫