・・・けれどもまだその外にも僕はいろいろの原因から、どうも俳人と云うものは案外世渡りの術に長じた奸物らしい気がしていた。「いやに傲慢な男です」などと云う非難は到底受けそうもない気がしていた。それだけに悪口を云われた蛇笏は悪口を云われない連中よりも・・・ 芥川竜之介 「飯田蛇笏」
・・・伊勢は七度よいところ、いざ御案内者で客を招けば、おらあ熊野へも三度目じゃと、いわれてお供に早がわり、いそがしかりける世渡りなり。 明治三十八乙巳年十月吉日鏡花、さも身に染みたように、肩を震わすと、後毛がまたはらはら。「寒く・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ 津々浦々到る処、同じ漁師の世渡りしながら、南は暖に、北は寒く、一条路にも蔭日向で、房州も西向の、館山北条とは事かわり、その裏側なる前原、鴨川、古川、白子、忽戸など、就中、船幽霊の千倉が沖、江見和田などの海岸は、風に向いたる白帆の外には・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・よって件の古外套で、映画の台本や、仕入ものの大衆向で、どうにか世渡りをしているのであるから。「陽気も陽気だし、それに、山に包まれているんじゃない、その市場のすぐ見通しが、大きな湖だよ、あの、有名な宍道湖さ。」「あら、山の中だって、お・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・「世渡りのためとは申しながら……前へ御祝儀を頂いたり、」 と口籠って、「お恥かしゅう存じます。」と何と思ったか、ほろりとした。その美しさは身に染みて、いまだ夢にも忘れぬ。 いや、そこどころか。 あの、籠の白い花を忘れまい・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・夫婦ふたりの手で七、八人の子どもをかかえ、僕が棹を取り妻が舵を取るという小さな舟で世渡りをするのだ。これで妻子が生命の大部分といった言葉の意味だけはわかるであろうが、かくのごとき境遇から起こってくるときどきのできごととその事実は、君のような・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・最高学府なんぞ出たからとて、べつだん自慢にも、世渡りのたしにも、……ことに今になっては……ならぬ故、どうでもよいことだが、しかし、まあ誤謬だけは正して置こう。実は、おれは中等学校へは二三年通ったことはあるが、それ以上の学問は、少なくとも学校・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・一般に科学というものを知らなかった上古の人間も学としての形態の充分ととのっていない支那や日本の諸子百家の教えも、また文字なき田夫野人の世渡りの法にも倫理的関心と探究と実践とはある。しかし現代に生を享けて、しかも学徒としての境遇におかれたイン・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・僕はいま世渡りということについて考えている。僕は趣味で小説を書いているのではない。結構な身分でいて、道楽で書くくらいなら、僕ははじめから何も書きはせん。とりかかれば、一通りはうまくできるのが判っている。けれども、とりかかるまえに、これは何故・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・そうして、私も、いまは営々と、小市民生活を修養し、けちな世渡りをはじめている。いやだ。私ひとりでもよい。もういちど、あの野望と献身の、ロマンスの地獄に飛び込んで、くたばりたい! できないことか。いけないことか。この大動揺は、昨夜の盗賊来襲を・・・ 太宰治 「春の盗賊」
出典:青空文庫