・・・ 科学が今日のように発達したのは過去の伝統の基礎の上に時代時代の経験を丹念に克明に築き上げた結果である。それだからこそ、颱風が吹いても地震が揺ってもびくとも動かぬ殿堂が出来たのである。二千年の歴史によって代表された経験的基礎を無視して他・・・ 寺田寅彦 「津浪と人間」
・・・ その日になると、お絹は昼ごろ髪を結いに行って、帰ってくると、珍らしくおひろの鏡台に向かっていたが、おひろもお湯に行ってくると、自分の意匠でハイカラに結いあげるつもりで、抱えの歌子に手伝わせながら、丹念に工夫を凝らしていたが、気に入らなか・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・わたくしは爺さんが何処から持って来たものか、そぎ竹を丹念に細く削って鳥籠をつくっているのを見たことがあった。よく見る町の理髪師が水鉢に金魚を飼ったり、提燈屋が箱庭をつくって店先へ飾ったりするような趣味を、この爺さんも持っていたらしい。爺さん・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・わずか三茎の花に、少くとも五六時間の手間をかけて、どこからどこまで丹念に塗り上げている。これほどの骨折は、ただに病中の根気仕事としてよほどの決心を要するのみならず、いかにも無雑作に俳句や歌を作り上げる彼の性情から云っても、明かな矛盾である。・・・ 夏目漱石 「子規の画」
・・・その本は大分丹念に使用したものと見えて裏表とも表紙が千切れていた。それを借りたときにも返した時にも、先生は哲学の方の素養もあるのかと考えて、小供心に羨ましかった。 あるときどんな英語の本を読んだら宜かろうという余の問に応じて、先生は早速・・・ 夏目漱石 「博士問題とマードック先生と余」
・・・ 柱に頭をもたせかけ、私はくたびれてうっとりとし、ぼんやり幸福で、そのビスケットを一つ一つ、前歯の間で丹念に二つにわって行った。〔一九二四年三月〕 宮本百合子 「雲母片」
・・・虫はちゃんとそれを心得、必死の勢いで丹念に早業を繰返すのだ――私は終に失笑した。そして、その滑稽で熱烈な虫を団扇にのせ、庭先の蚊帳つり草の央にすててやった。「ずるや! だました気だな!」 きのうきょうは秋口らしい豪雨が降りつづい・・・ 宮本百合子 「この夏」
・・・ 久内が、父の山下などと茶の湯をやる、茶の湯の作法を、横光は丹念に書いて「戦乱の巷に全盛を極めて法を確立させた利休の心を体得することに近づきたいと思っている」久内の安心立命、模索の態度を認め、更に「わが国の文物の発展が何といっても茶法に・・・ 宮本百合子 「一九三四年度におけるブルジョア文学の動向」
・・・それから五月下旬まで、毎月一回、きまって本郷の各部が爆撃をうけつづけた。丹念に、のこった部分につづく地域から被害をうけて、レイダアと云われる機械の精密さをおどろかされた。幾回かの襲撃の間に、うちのぐるりもひどくやられて、唐子の前髪のように動・・・ 宮本百合子 「田端の汽車そのほか」
・・・けれども、一人一人の成長と発展の過程には、丹念に青春の青銅時代がもたらされている。そしてそのういういしく漲るエネルギーによって人間生活のありかたが改めて知覚され、探究され必ず何かの新しい可能もそこに芽生えていて、社会のうちに行為されてゆく。・・・ 宮本百合子 「小さい婦人たちの発言について」
出典:青空文庫