・・・それで今朝汽車が出てしまって改札口へ引返すと同時に、なんだか気抜けがしたように、プラットフォームの踏心も軽く停車場を出ると空はよく晴れて快い日影を隠す雲もない。久し振りに天気のよい日曜である。宅へ帰ってどうすると云うあてもないので、銀座通り・・・ 寺田寅彦 「障子の落書」
・・・君と余とは中学時代以来の親友である、殊に今度は同じ悲を抱きながら、久し振りにて相見たのである、単にいつもの旧友に逢うという心持のみではなかった。しかるに手紙にては互に相慰め、慰められていながら、面と相向うては何の語も出ず、ただ軽く弔辞を交換・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
久し振りで女優劇を観る。 番組に一通り目を通しただけでも、いつもながら目先の変化に苦心してある様子が窺われる。一番目「恋の信玄」から始って、チェーホフの喜劇「犬」に至る迄、背景として取入れられている外国の名を列挙したば・・・ 宮本百合子 「印象」
・・・ 十一月二十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より〕 今日は久し振りで吉報をもたらします。昨日午後一時五十分男の子が生れ、九百五十匁でまことに見事な坊主だそうです。七時半頃起こされてみたら、もう洗面所で支度していて出たのが・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・寒さや陰気さで縮んでいた彼等は、久し振りに障子もあけて置ける暖かさでさぞ嬉しいのだろう、雨だれの音、小鳥の声が、入り混り優しく響く。 全く、彼等の天候に支配されることといったら、私以上の鋭さである。紅雀、じゅうしまつ、きんぱら、文鳥など・・・ 宮本百合子 「小鳥」
・・・ その日の前五六日程大変気をつめた仕事をして居たので、久し振りで、庭土を踏んで見ると、頸の固くなったのも忘れるほど、空の色でも、土の肌でも美くしく、明るく眼に映った。 あっちこっち歩きながら、手足をどうにかして動かしたい様な気持にな・・・ 宮本百合子 「二十三番地」
・・・ わしはのう、夜毎にいろいろと老人達やら又は小鳥の様な者共からいろいろの話をきいたのじゃ。 罪のない面白い話はわしの口のはたでおどり狂うて居るのでのう。 久し振りに参った事故わしは御事に知って居る丈の話をきかすのをお事が見えたと・・・ 宮本百合子 「胚胎(二幕四場)」
・・・ それは、あなた方が今日話を聴きにおいでになるそのお心持の中にはいろいろな好奇心もあったかも知れないし、久し振りだからこんな話も聴いていいという気持があったかも知れませんけれども、いちばん根本は何か、やはり話している人達と同じように生き・・・ 宮本百合子 「婦人の創造力」
同郷人の懇親会があると云うので、久し振りに柳橋の亀清に往った。 暑い日の夕方である。門から玄関までの間に敷き詰めた御影石の上には、一面の打水がしてあって、門の内外には人力車がもうきっしり置き列べてある。車夫は白い肌衣一・・・ 森鴎外 「余興」
・・・そんなわけで、まあ、きょうお目に掛かったのは本当に久し振りでございましたわね。わたくしの申す事はお分かりになりましたでしょう。あの時二頭曳の馬車を雇っていらっしゃったらと申すのでございますよ。男。ああ。ああ。貴夫人。本当になんでも無・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「辻馬車」
出典:青空文庫